映画「ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング」をみてきたよ
映画「ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング」をみてきたよ
感謝……!!
相変わらずトム・クルーズのクレイジーなアクションシーン乱れ撃ちに、「はわわわわわ、あぶなーーーーーい!!!」ってドキドキしながら見てきました。なんかもう今こんなにハラハラできる映画もそうない。ありがあとうトム。ほんとうにどうかしている。
前作「デッド・レコニング」では、コロナ渦で出演者といえどもほとんど身体接触できない状況で撮影したとあって、全体にやや盛り上げに欠ける感じがありましたが、今作ではそれらを取り戻す勢いで頭がおかしい。いやここ10年分はずっとおかしかったけど。
この映画の主人公イーサン・ハントは、それこそ007やらなんやらに並ぶ「超人スパイ」なわけですけど、ミッションインポッシブルの特色とは「映画の登場人物イーサン・ハントがやってることは、実在人物であるトム・クルーズも同じことができる」という点で。なんでこんなことしてんだ。いやトム本人が最高責任者だからだれも止める人が居ないってだけなんだが。
そんな過激なアクションシーンの傍ら、「暴力的なシーンは直接映さず、それを観測している人間のリアクションで演出する」とか「そこにいた人間が消えたと思ったら、次のカットで血まみれの手首が見える」といった、クラシックな映画演出がふんだんに盛り込まれていて、トム・クルーズはじめとした制作者たちは「アクションシーンも含めた、かつての映画の面白さ」をどうにか残したいんだなあという心意気を感じる。単なる命知らずのジャンキーってわけじゃなく、映画人としての姿勢が見えてくるんですよね。
今作ははっきりとこれまでのMIシリーズの集大成として位置づけられており、あーほんとに一回ここで畳むんだな~ってしみじみしちゃう。まあ気が向いたらまた映画を撮るんでしょう。そういう人だと思う。
感謝……!!
相変わらずトム・クルーズのクレイジーなアクションシーン乱れ撃ちに、「はわわわわわ、あぶなーーーーーい!!!」ってドキドキしながら見てきました。なんかもう今こんなにハラハラできる映画もそうない。ありがあとうトム。ほんとうにどうかしている。
前作「デッド・レコニング」では、コロナ渦で出演者といえどもほとんど身体接触できない状況で撮影したとあって、全体にやや盛り上げに欠ける感じがありましたが、今作ではそれらを取り戻す勢いで頭がおかしい。いやここ10年分はずっとおかしかったけど。
この映画の主人公イーサン・ハントは、それこそ007やらなんやらに並ぶ「超人スパイ」なわけですけど、ミッションインポッシブルの特色とは「映画の登場人物イーサン・ハントがやってることは、実在人物であるトム・クルーズも同じことができる」という点で。なんでこんなことしてんだ。いやトム本人が最高責任者だからだれも止める人が居ないってだけなんだが。
そんな過激なアクションシーンの傍ら、「暴力的なシーンは直接映さず、それを観測している人間のリアクションで演出する」とか「そこにいた人間が消えたと思ったら、次のカットで血まみれの手首が見える」といった、クラシックな映画演出がふんだんに盛り込まれていて、トム・クルーズはじめとした制作者たちは「アクションシーンも含めた、かつての映画の面白さ」をどうにか残したいんだなあという心意気を感じる。単なる命知らずのジャンキーってわけじゃなく、映画人としての姿勢が見えてくるんですよね。
今作ははっきりとこれまでのMIシリーズの集大成として位置づけられており、あーほんとに一回ここで畳むんだな~ってしみじみしちゃう。まあ気が向いたらまた映画を撮るんでしょう。そういう人だと思う。
映画「シビル・ウォー アメリカ最後の日」をみてきた
映画「シビル・ウォー アメリカ最後の日」をみてきた
頭がぐわんぐわんする。
内戦が起きたアメリカで、正規軍率いる現大統領に対して反乱軍が激闘を繰り広げる状況の中、「大統領の最後のインタビューを撮る」ため、最前線であるワシントンD.Cに向かうジャーナリストたちの旅を描いたロードムービーです。
崩壊した社会秩序、誰がどの勢力かわからない状況の中、目の前でもしくは自分に対して向けられる暴力の数々。兵士だから市民だからどの陣営だなんて関係ない。どこに誰がいるのかもわからない。ただただ「自分の」前に暴力は広がっている。
だけど、その暴力の根っこには確実に「今の現実にある」差別や社会的階級が根を張っている。一番最初に出会うガソリンスタンドで繰り広げられた惨劇は「高校が同じだったけど、話はしなかった」もの同士で起きているし、道中で行き当たった殺戮者は有色人種を狙って殺す。これが現実じゃないって誰が言えるのか。
その一方で、戦地の真っただ中でありながら、おそらくは強力な暴力組織に守られて、秩序と平穏を享受する町がぽつんとある。だからこれは、世界の縮図であり戯画なんだろうと。すぐそこに暴力に満たされた地域があり、でもほんの少しの違いで、平穏な地域がある。でも結局後者とは、それはそれで別の暴力によって囲われているに過ぎない。そこに住む住民たちは「ニュースで見てる。近寄らないようにしてる」とこともなげにいう。なんかここがもう本当に刺さる。我々の姿じゃないか。
私は石川在住で、住んでいるところは平穏そのものですが、ほんの数キロ車を走らせれば、まだまだ地震被害が色濃く残る地域がそこにあります。私の姿を、あの町の住民に見て知って泣けてくる。
それをひたすらに記録するジャーナリストたち。もちろん彼らにも暴力は及び、時に取り返しのつかない傷をつけられ、それでも「今起きていること」を残し、伝えるために記録する。それだけの映画でもあるし、それほどまでに、と言いたくなるような、ものすごいパンチを繰り出してくる映画でした。
なにかできることはあるだろうか。
頭がぐわんぐわんする。
内戦が起きたアメリカで、正規軍率いる現大統領に対して反乱軍が激闘を繰り広げる状況の中、「大統領の最後のインタビューを撮る」ため、最前線であるワシントンD.Cに向かうジャーナリストたちの旅を描いたロードムービーです。
崩壊した社会秩序、誰がどの勢力かわからない状況の中、目の前でもしくは自分に対して向けられる暴力の数々。兵士だから市民だからどの陣営だなんて関係ない。どこに誰がいるのかもわからない。ただただ「自分の」前に暴力は広がっている。
だけど、その暴力の根っこには確実に「今の現実にある」差別や社会的階級が根を張っている。一番最初に出会うガソリンスタンドで繰り広げられた惨劇は「高校が同じだったけど、話はしなかった」もの同士で起きているし、道中で行き当たった殺戮者は有色人種を狙って殺す。これが現実じゃないって誰が言えるのか。
その一方で、戦地の真っただ中でありながら、おそらくは強力な暴力組織に守られて、秩序と平穏を享受する町がぽつんとある。だからこれは、世界の縮図であり戯画なんだろうと。すぐそこに暴力に満たされた地域があり、でもほんの少しの違いで、平穏な地域がある。でも結局後者とは、それはそれで別の暴力によって囲われているに過ぎない。そこに住む住民たちは「ニュースで見てる。近寄らないようにしてる」とこともなげにいう。なんかここがもう本当に刺さる。我々の姿じゃないか。
私は石川在住で、住んでいるところは平穏そのものですが、ほんの数キロ車を走らせれば、まだまだ地震被害が色濃く残る地域がそこにあります。私の姿を、あの町の住民に見て知って泣けてくる。
それをひたすらに記録するジャーナリストたち。もちろん彼らにも暴力は及び、時に取り返しのつかない傷をつけられ、それでも「今起きていること」を残し、伝えるために記録する。それだけの映画でもあるし、それほどまでに、と言いたくなるような、ものすごいパンチを繰り出してくる映画でした。
なにかできることはあるだろうか。
映画「マッドマックス:フュリオサ」見てきたぞ
映画「マッドマックス:フュリオサ」見てきたぞ
2015年に世界の映画史を塗り替えた「マッドマックス 怒りのデスロード(以下FR)」のスピンオフだーーーーーーーーー!!!
荒れた大地とすみわたる空の下で、美しく精緻な構造と色彩で彩られ、血とガソリンと爆発の中で誕生する英雄フュリオサの始まり。
前作FRでは監督自身が「一つのチェイスで繋がる映画を撮りたかった」というだけあってとにかく展開が止まらない作品でしたが、フュリオサは6章からなる物語で作中時間も15年かかっておりかなり趣は異なります。
バイオレンス描写ははっきりと増えてます。元々相当に殺伐とした世界観ではあるんですが、FRではスピード感が凄すぎてパッと流れちゃってたようなものが、本作は普通に正面から撮るので苦手な人は要注意。
前作ではかすったくらいだった世界描写も、今作ではそれが本旨かなってくらいにあの世界の街の様子が正面から描かれていて楽しい。
あんなに殺伐とした終末世界なのに、どこか歴史と文化の重厚さも感じる手つきは、同監督の「アラビアンナイト 3000年の願い」と彷彿とさせます。西アジアの煌びやかで崇高な文化が、マッドマックスの世界にも生きているんだなあ。
で、ストーリーはガッツリFRに接続するし、不屈さと希望を感じる終わり方にグッとくる。
「何者にも屈しない」と面一発で語るフュリオサの瞳が印象的で、それでいてその所作は冷静沈着そのもの。なんかねーほんとこの一切の無駄をと怯えを感じない立ち振る舞いに見惚れちゃうんだよね……こんなん好きになっちゃうよ!!!!
その一方で「こんな目に遭ってるのに故郷は……」と後の展開を思って泣けてくる。涙を流すシーンはいくつかありますが、彼女が慟哭するのはあのシーンだけなんだ……。
そう、今回の映画でわかったのは、フュリオサ自身の復讐はここで一旦けじめがついてること。イモータンジョー自身にも多少の恨みはあるとしても、彼女がFRで逃避行を選んだのは、決して恨みだけじゃなかった。
彼女は母との約束、故郷へ帰ることを渇望してたし、それは彼女の生きる理由そのもので、生きたいからこそ囚われの子産み女たちを引き連れてFRの旅は始まった。
フュリオサが、逃亡の手伝いになるとはいえない彼女らを連れ出したのは、復讐の果てに見つけた「我欲の成れの果て」に向き合ったからだろうか、と。
エゴ以外の何かを連れて、生きるために逃げ出す。それは英雄と呼ばれる素質なんじゃないでしょうか。
エンドロールを見ながらそう考えて、なんだか心が元気になりながら帰ってきました。
2015年、マッドマックスFRは前知識なしに日本での封切り日翌日に見て、そこから半年くらいずっとこの映画のこと考え続けるくらいに刺さってしまった時代の大傑作だと思っています。
観たその日はずっと「うわ、これからはこの映画がある世界なのか」「これから生まれるあらゆる映画や創作物は、この映画と比較されてしまうんだ」とぐるぐる考えてしまってたのを覚えています。
その後、世間でもこの衝撃が伝わり、カルト的人気を誇るわけですが、あの時まだ誰の感想も評論も見ないままに映画観てショックを受けたのはほんとに得難い体験でした。
あの時の衝撃は今もあるし、実際やっぱり「変わった」実感もあって、時代を目の当たりにできたこと誇りに思っています。
フュリオサも一本で楽しめる映画ですが、是非ともここからマッドマックス怒りのデスロードも見て欲しい。これが世界を変えた一本ですよと。
2015年に世界の映画史を塗り替えた「マッドマックス 怒りのデスロード(以下FR)」のスピンオフだーーーーーーーーー!!!
荒れた大地とすみわたる空の下で、美しく精緻な構造と色彩で彩られ、血とガソリンと爆発の中で誕生する英雄フュリオサの始まり。
前作FRでは監督自身が「一つのチェイスで繋がる映画を撮りたかった」というだけあってとにかく展開が止まらない作品でしたが、フュリオサは6章からなる物語で作中時間も15年かかっておりかなり趣は異なります。
バイオレンス描写ははっきりと増えてます。元々相当に殺伐とした世界観ではあるんですが、FRではスピード感が凄すぎてパッと流れちゃってたようなものが、本作は普通に正面から撮るので苦手な人は要注意。
前作ではかすったくらいだった世界描写も、今作ではそれが本旨かなってくらいにあの世界の街の様子が正面から描かれていて楽しい。
あんなに殺伐とした終末世界なのに、どこか歴史と文化の重厚さも感じる手つきは、同監督の「アラビアンナイト 3000年の願い」と彷彿とさせます。西アジアの煌びやかで崇高な文化が、マッドマックスの世界にも生きているんだなあ。
で、ストーリーはガッツリFRに接続するし、不屈さと希望を感じる終わり方にグッとくる。
「何者にも屈しない」と面一発で語るフュリオサの瞳が印象的で、それでいてその所作は冷静沈着そのもの。なんかねーほんとこの一切の無駄をと怯えを感じない立ち振る舞いに見惚れちゃうんだよね……こんなん好きになっちゃうよ!!!!
その一方で「こんな目に遭ってるのに故郷は……」と後の展開を思って泣けてくる。涙を流すシーンはいくつかありますが、彼女が慟哭するのはあのシーンだけなんだ……。
そう、今回の映画でわかったのは、フュリオサ自身の復讐はここで一旦けじめがついてること。イモータンジョー自身にも多少の恨みはあるとしても、彼女がFRで逃避行を選んだのは、決して恨みだけじゃなかった。
彼女は母との約束、故郷へ帰ることを渇望してたし、それは彼女の生きる理由そのもので、生きたいからこそ囚われの子産み女たちを引き連れてFRの旅は始まった。
フュリオサが、逃亡の手伝いになるとはいえない彼女らを連れ出したのは、復讐の果てに見つけた「我欲の成れの果て」に向き合ったからだろうか、と。
エゴ以外の何かを連れて、生きるために逃げ出す。それは英雄と呼ばれる素質なんじゃないでしょうか。
エンドロールを見ながらそう考えて、なんだか心が元気になりながら帰ってきました。
2015年、マッドマックスFRは前知識なしに日本での封切り日翌日に見て、そこから半年くらいずっとこの映画のこと考え続けるくらいに刺さってしまった時代の大傑作だと思っています。
観たその日はずっと「うわ、これからはこの映画がある世界なのか」「これから生まれるあらゆる映画や創作物は、この映画と比較されてしまうんだ」とぐるぐる考えてしまってたのを覚えています。
その後、世間でもこの衝撃が伝わり、カルト的人気を誇るわけですが、あの時まだ誰の感想も評論も見ないままに映画観てショックを受けたのはほんとに得難い体験でした。
あの時の衝撃は今もあるし、実際やっぱり「変わった」実感もあって、時代を目の当たりにできたこと誇りに思っています。
フュリオサも一本で楽しめる映画ですが、是非ともここからマッドマックス怒りのデスロードも見て欲しい。これが世界を変えた一本ですよと。
映画「陰陽師0」を見てきたよ
映画「陰陽師0」を見てきたよ
原作やコミックは未読でうすらぼんやりタイトルは知ってる程度ですが、多分これあんまり原作関係ないやつですよねそれはわかる。
陰陽道と言いつつ、現代人にも理解しやすい科学的な視点で分解し、でも作中でハッタリ利かすところは利かしてみせる(集団催眠てそんな長時間かかるか?とか)というバランスが良かったですね。
視覚効果が強調されてる予告でしたが、使い所は限定的で短めで、スペクタクル感は思ってるよりは弱く感じました。中盤の大立ち回りもワイヤーを駆使して大きく動く割に、微妙にカメラに収まっておらず迫力不足でもったいなかったな。
それよりも、大きなセットやロケを多用したドラマパートが楽しかったなあと。もっとミステリーパートを長くして、あの学舎や街並みの中を彼らが行き交う様はもっとたくさん見たかったな〜。
それと衣装の使い方が良かったですね。身分の高いものは分厚く濃い色の服を着て、低いものほど布がくたびれた質感になっており、後述する安倍晴明の異様さも衣装で演出されてたように思います。
あとは何より主人公安倍晴明とその相棒の源博雅のキャラクターが魅力的。
晴明を演じる山崎賢人氏は、これまでは活発な青年役が印象的でしたが、感情の起伏が小さく抑えた演技も良かった。
アクションも上手い俳優さんながらに華奢な人だなと思ってましたが、本作ではその細さがキャライメージにも合ってました。周囲と違って一人だけ体の線が出やすい衣装なのも、その性質をより際立たせていて上手い演出でした(周りの男性陣は肩や胴回りをふっくらと厚みを出す構造の服なのに、晴明は肩から腰にかけてストンと落とした衣装)
染谷将太氏が演じる博雅の、情緒に溢れたキャラクターとのバディ感が気持ちよく、この2人の化学反応は本作一番の見どころと言っていいでしょう。
次回作があるかどうかはわからないところですが、彼らの表情やドラマに注目したものだったら良かったな〜と思うくらい、ずっと見ていたくなるコンビ感でした。
原作やコミックは未読でうすらぼんやりタイトルは知ってる程度ですが、多分これあんまり原作関係ないやつですよねそれはわかる。
陰陽道と言いつつ、現代人にも理解しやすい科学的な視点で分解し、でも作中でハッタリ利かすところは利かしてみせる(集団催眠てそんな長時間かかるか?とか)というバランスが良かったですね。
視覚効果が強調されてる予告でしたが、使い所は限定的で短めで、スペクタクル感は思ってるよりは弱く感じました。中盤の大立ち回りもワイヤーを駆使して大きく動く割に、微妙にカメラに収まっておらず迫力不足でもったいなかったな。
それよりも、大きなセットやロケを多用したドラマパートが楽しかったなあと。もっとミステリーパートを長くして、あの学舎や街並みの中を彼らが行き交う様はもっとたくさん見たかったな〜。
それと衣装の使い方が良かったですね。身分の高いものは分厚く濃い色の服を着て、低いものほど布がくたびれた質感になっており、後述する安倍晴明の異様さも衣装で演出されてたように思います。
あとは何より主人公安倍晴明とその相棒の源博雅のキャラクターが魅力的。
晴明を演じる山崎賢人氏は、これまでは活発な青年役が印象的でしたが、感情の起伏が小さく抑えた演技も良かった。
アクションも上手い俳優さんながらに華奢な人だなと思ってましたが、本作ではその細さがキャライメージにも合ってました。周囲と違って一人だけ体の線が出やすい衣装なのも、その性質をより際立たせていて上手い演出でした(周りの男性陣は肩や胴回りをふっくらと厚みを出す構造の服なのに、晴明は肩から腰にかけてストンと落とした衣装)
染谷将太氏が演じる博雅の、情緒に溢れたキャラクターとのバディ感が気持ちよく、この2人の化学反応は本作一番の見どころと言っていいでしょう。
次回作があるかどうかはわからないところですが、彼らの表情やドラマに注目したものだったら良かったな〜と思うくらい、ずっと見ていたくなるコンビ感でした。
劇場版『名探偵コナン100万ドルの五稜星』を見てきたよ
劇場版『名探偵コナン100万ドルの五稜星』を見てきたよ
原作は飛び飛びで読み、劇場版はゼロの執行人から見始めるというミーハーですよろしくお願いします。
正直そこまで期待して見てるわけでもないんですが、「とにかく派手な絵面と展開でドカンドカンを安定してやってくれる」という一点で毎年楽しみです。
そんな私はゼロ執や黒鉄よりも、今年の方が好きかな〜。
絵的に派手なのは名前あげた作品たちなんですが、この辺は派手さ優先で元々薄い話がさらに薄く話が前後で繋がっておらず、それでいて当番回のキャラには大きく尺をとって魅せようとするから、唐突に心理描写が始まるな、と感じて個人的にはそこまで評価が高くないです。
今回は、謎解きはあくまで物語を駆動するための装置で、半ば都合よく次々明かされていきますが、やりたいのはそうやって展開が動く中でのドラマ部分だと受け取りました。
キッドと警察の関係、ゲストキャラの人物関係、そして服部とコナンとキッドの距離感。やや情報過多ではありますが、ドラマを繋げて、ここにしかない場に到達しようとしてる点は評価したい。
あと、函館警察vs外国人マフィアvsテロリスト24時!!!って感じで、街中で発砲も爆発起きるし、完全に函館の街が抗争状態なのに登場人物らが誰も気にしないのが狂ってて良かったですね。
いや気にしろよ。今更コナン世界にそこいってもしょうがないんか……。
とはいえ、「函館に眠る宝」の真相は好みでした。こんな諍いの結末は、恐ろしく無為であるべきだ。
ラストで明かされるとある設定は、「ん??あれ??これ既出????」と思わず調べましたが初出情報らしい。劇場版でそんなことするのかーとちょっと驚き。
来年も見まーす。
原作は飛び飛びで読み、劇場版はゼロの執行人から見始めるというミーハーですよろしくお願いします。
正直そこまで期待して見てるわけでもないんですが、「とにかく派手な絵面と展開でドカンドカンを安定してやってくれる」という一点で毎年楽しみです。
そんな私はゼロ執や黒鉄よりも、今年の方が好きかな〜。
絵的に派手なのは名前あげた作品たちなんですが、この辺は派手さ優先で元々薄い話がさらに薄く話が前後で繋がっておらず、それでいて当番回のキャラには大きく尺をとって魅せようとするから、唐突に心理描写が始まるな、と感じて個人的にはそこまで評価が高くないです。
今回は、謎解きはあくまで物語を駆動するための装置で、半ば都合よく次々明かされていきますが、やりたいのはそうやって展開が動く中でのドラマ部分だと受け取りました。
キッドと警察の関係、ゲストキャラの人物関係、そして服部とコナンとキッドの距離感。やや情報過多ではありますが、ドラマを繋げて、ここにしかない場に到達しようとしてる点は評価したい。
あと、函館警察vs外国人マフィアvsテロリスト24時!!!って感じで、街中で発砲も爆発起きるし、完全に函館の街が抗争状態なのに登場人物らが誰も気にしないのが狂ってて良かったですね。
いや気にしろよ。今更コナン世界にそこいってもしょうがないんか……。
とはいえ、「函館に眠る宝」の真相は好みでした。こんな諍いの結末は、恐ろしく無為であるべきだ。
ラストで明かされるとある設定は、「ん??あれ??これ既出????」と思わず調べましたが初出情報らしい。劇場版でそんなことするのかーとちょっと驚き。
来年も見まーす。
映画「ゴジラxコング 新たなる帝国」を見てきたよ
映画「ゴジラxコング 新たなる帝国」を見てきたよ
我らがモンスターバースの最新作が出たぞー
ご存じゴジラさんを中心とした怪獣サンたちが集結!! 地球の覇権を狙う新たな怪獣たちとどったんバッタン大騒ぎ!!
とにかく怪獣が暴れてくれたらいいんじゃい!!っていう映画ですが、実際に映画館で隣になった小学生くらいの男子が、ゴジラの登場シーンで「かっこいい……」と呟いてたの良かったです。
個人的には、ゴジラやコングはカッコいいけど、敵役の怪獣が毎回ちょっとダサいのが辛いなと。
今回の敵役「スカーキング」は過去にゴジラとも戦い封印された強敵ですが、やってることがせこい。暴力で支配し、子供や年寄りコングたちを虐め抜き、自分以上に強い古代竜を従えることでようやく上位に立ってるだけで、めちゃくちゃ小物なんだよな〜。
こういうのは敵役にもかっこよさや格の高さを見せてほしい〜。
あとこのシリーズのゴジラはモスラにはちょっと頭が上がらないタイプで、勢い喧嘩初めてもモスラさんの仲介で待ってくれるが、そこもちょっとゴジラの格を下げてるように思えて好みではない……いや歴代のモスラにそういう要素がないとは言わんがー。
総じて、「人類の意に沿わず、人類文明を破壊しうる暴力装置」を信じてるようで信じてないというか、「どこかで制御できるものである」と考えてる感じが怪獣に対する解釈と違うなと。「どうやったって襲いくるもの」という側面に、ひたすら目を瞑ってる感じが危なっかしい。
そんな怪獣サンを上位存在に置き、人類の文明や人類がどんだけ毀損しようとも構わないガンギマリ人類組織のモナークが本当に異様。
一応ゴジラもコングも人類を守ってくれてる風だけど、でも全然こいつらも都市を大破壊しまくってるんで、これを守護者として仰いでるモナークまじ過激派異常集団なんだが、作中で「人間も食物連鎖の一つ。怪獣はそのことを思い出させてくれる」というセリフがありますが、その割に怪獣たちのコントロールも志向してるように見えて、どうにも作り手の欺瞞を感じる。
今作でちょっと面白いなと思ったのが、「発声」以外のコミュニケーションが多く表現されてたこと。
主人公の博士と娘は手話で会話するし、地底文明の人類やコングたちとはほぼ身振り手振りで会話する。それでも映画を見てる側にも何を言ってるのか、やりたいのかが伝わってくるのは、異文化や異種族を描く上で効果的な演出だなと。スターウォーズシリーズでもよくありますね。
考え方の違いは感じますけど、でも怪獣たちが躊躇なく建造物を倒しまくって大暴れする様に惹かれる気持ちはよくわかる。次回作があるかはわからんけどどこまで行くのかは気になるシリーズです。
我らがモンスターバースの最新作が出たぞー
ご存じゴジラさんを中心とした怪獣サンたちが集結!! 地球の覇権を狙う新たな怪獣たちとどったんバッタン大騒ぎ!!
とにかく怪獣が暴れてくれたらいいんじゃい!!っていう映画ですが、実際に映画館で隣になった小学生くらいの男子が、ゴジラの登場シーンで「かっこいい……」と呟いてたの良かったです。
個人的には、ゴジラやコングはカッコいいけど、敵役の怪獣が毎回ちょっとダサいのが辛いなと。
今回の敵役「スカーキング」は過去にゴジラとも戦い封印された強敵ですが、やってることがせこい。暴力で支配し、子供や年寄りコングたちを虐め抜き、自分以上に強い古代竜を従えることでようやく上位に立ってるだけで、めちゃくちゃ小物なんだよな〜。
こういうのは敵役にもかっこよさや格の高さを見せてほしい〜。
あとこのシリーズのゴジラはモスラにはちょっと頭が上がらないタイプで、勢い喧嘩初めてもモスラさんの仲介で待ってくれるが、そこもちょっとゴジラの格を下げてるように思えて好みではない……いや歴代のモスラにそういう要素がないとは言わんがー。
総じて、「人類の意に沿わず、人類文明を破壊しうる暴力装置」を信じてるようで信じてないというか、「どこかで制御できるものである」と考えてる感じが怪獣に対する解釈と違うなと。「どうやったって襲いくるもの」という側面に、ひたすら目を瞑ってる感じが危なっかしい。
そんな怪獣サンを上位存在に置き、人類の文明や人類がどんだけ毀損しようとも構わないガンギマリ人類組織のモナークが本当に異様。
一応ゴジラもコングも人類を守ってくれてる風だけど、でも全然こいつらも都市を大破壊しまくってるんで、これを守護者として仰いでるモナークまじ過激派異常集団なんだが、作中で「人間も食物連鎖の一つ。怪獣はそのことを思い出させてくれる」というセリフがありますが、その割に怪獣たちのコントロールも志向してるように見えて、どうにも作り手の欺瞞を感じる。
今作でちょっと面白いなと思ったのが、「発声」以外のコミュニケーションが多く表現されてたこと。
主人公の博士と娘は手話で会話するし、地底文明の人類やコングたちとはほぼ身振り手振りで会話する。それでも映画を見てる側にも何を言ってるのか、やりたいのかが伝わってくるのは、異文化や異種族を描く上で効果的な演出だなと。スターウォーズシリーズでもよくありますね。
考え方の違いは感じますけど、でも怪獣たちが躊躇なく建造物を倒しまくって大暴れする様に惹かれる気持ちはよくわかる。次回作があるかはわからんけどどこまで行くのかは気になるシリーズです。
映画「ボーはおそれている」を見てきたよ
映画「ボーはおそれている」を見てきたよ
公式サイトより引用
新進気鋭の映画監督アリ・アスターの長編最新作! 私が長編初作品のヘレディタリーを見た後に1週間くらい引きずって家の電気を消せなくなったでおなじみ!
ヘレディタリーでもミッドサマーでも鑑賞直後は「どう思えっていうんだよ!」と思った覚えがあるんですが、今回も見事に「どう思えっていうんだよ!!」って思いながら帰路につきました。
いうてヘレディタリーもミッドサマーも「ホラー映画」に属しており、そこには「型」があるから、あちこちでぐにょんぐにょんしていてもまだ外枠があったんですよね。そこへいくと「ボーはおそれている」は監督自身が「ジャンルにとらわれない映画を撮りたい」というコンセプトから始まっており、ある意味「外枠をなくした映画」を志しているのだろうと推測されるので、もうただただぐにょんぐにょんです。
夢、特に悪夢のような映画で。強いオチもないし、ただただ理屈のわからない理不尽なことがボーには襲い掛かってくる。一応、とある理屈は示されるが、なによりそれが明かされた後の展開は、もう本当にふわふわとした展開に突入するのでいよいよ悪夢めいてくる。エンドロールが流れた時には内心で「え!?」と驚き、なんだか頭の中がぐわんぐわんと回っているような感覚に襲われたわけで。
私が映画館で見た時、右隣に男女カップルが座っていたんですが、途中で女性が「かわいそすぎる……」とつぶやき、エンドロール後に男性が「わけわからん……」と言って立ち上がってましたが、本当にその言葉に集約されてるなって思います。
ちなみに左隣に座ってた老齢の女性は、鑑賞中に2・3回くらいいびきかきながら寝てました。まあでもそのくらい、平穏なようで実は何もかもが不穏という静かな映画でもあるので、見ながらげらげら笑える映画ではないです。あとなんかこの状況自体がすごいボーっぽいと後から思ったりもした。
ただでも、不穏、なんだよな……すべての画面がなんでああもう不穏なんだろうな……それもあってか、自分は終始奇妙な緊張感があって、頭がさえて変な精神状態に突入してる感じがありました。わかりやすい娯楽作ではないし、終始「どこいくんだこれ」と思わされるふらふら感があるけれど、何を描いていて何を描きたいのかはかなりはっきりわかる演出の冴えがあるので、退屈というのもちょっと違う感じ。
あとこれ地味に予算ががっつりかかってる映画なので、画面の作りこみや美術が目で楽しい。その全部には「不穏」の文字が張り付いているのでなお楽しい。
ここからは具体的なネタバレ含む話。
私はどうもボーを見ながら終始ヘレディタリーのことを思い出してました。この「別に何でもないのに何故か画面全体が不穏で目が離せない」が展開されて、そのうちドンとすごい展開がくる感じがすごい似ているなと。
なんといってもヘレディタリーの一番のトラウマである「屋根裏部屋に追い込まれる」展開がボーでもあり、実際に恐ろしい事態が起きますが、ボーではすかさず助けが入ってくるので助かりました。ホラーだったら見ながら死んでたけど、コメディ(?)だから助かった。
振り返ってみると、屋根裏部屋に入ってからのボーは「いうてなかなか母親に屈服しない」態度が完全に折れてしまい、精神が急激に変化してファンタジーに突入する感じはヘレディタリーの展開そのままなんですよね。
ヘレディタリーにおいては、むしろこの展開前後は「はい、ホラー映画のノルマですー」と言わんばかりの展開を詰め込んでみせてるんですが、ボーではより抽象的な何か突入していく。
そうやってジャンルという外枠、ノルマをなくした分だけ、アリ・アスター作品がずっと「語っていたもの」がよりむき出しになってわかりやすくなっているように感じました。
家族という牢獄、特に母系家族が子に注ぐ重圧。その話何回目だよ! と思っちゃうけど、正直自分としては身に覚えがばんばんあり、毎回描写の解像度の高さが見事すぎてなんもいえねえ。
べらぼうに映画が美味いんだけど、毎回初見で困惑させられる不思議なクリエイター。次回作もみるぜ!
日常のささいなことでも不安になってしまう怖がりの男ボーは、つい先ほどまで電話で会話していた母が突然、怪死したことを知る。
母のもとへ駆けつけようとアパートの玄関を出ると、そこはもう“いつもの日常”ではなかった。
その後も奇妙で予想外な出来事が次々と起こり、現実なのか妄想なのかも分からないまま、ボーの里帰りはいつしか壮大な旅へと変貌していく。
公式サイトより引用
新進気鋭の映画監督アリ・アスターの長編最新作! 私が長編初作品のヘレディタリーを見た後に1週間くらい引きずって家の電気を消せなくなったでおなじみ!
ヘレディタリーでもミッドサマーでも鑑賞直後は「どう思えっていうんだよ!」と思った覚えがあるんですが、今回も見事に「どう思えっていうんだよ!!」って思いながら帰路につきました。
いうてヘレディタリーもミッドサマーも「ホラー映画」に属しており、そこには「型」があるから、あちこちでぐにょんぐにょんしていてもまだ外枠があったんですよね。そこへいくと「ボーはおそれている」は監督自身が「ジャンルにとらわれない映画を撮りたい」というコンセプトから始まっており、ある意味「外枠をなくした映画」を志しているのだろうと推測されるので、もうただただぐにょんぐにょんです。
夢、特に悪夢のような映画で。強いオチもないし、ただただ理屈のわからない理不尽なことがボーには襲い掛かってくる。一応、とある理屈は示されるが、なによりそれが明かされた後の展開は、もう本当にふわふわとした展開に突入するのでいよいよ悪夢めいてくる。エンドロールが流れた時には内心で「え!?」と驚き、なんだか頭の中がぐわんぐわんと回っているような感覚に襲われたわけで。
私が映画館で見た時、右隣に男女カップルが座っていたんですが、途中で女性が「かわいそすぎる……」とつぶやき、エンドロール後に男性が「わけわからん……」と言って立ち上がってましたが、本当にその言葉に集約されてるなって思います。
ちなみに左隣に座ってた老齢の女性は、鑑賞中に2・3回くらいいびきかきながら寝てました。まあでもそのくらい、平穏なようで実は何もかもが不穏という静かな映画でもあるので、見ながらげらげら笑える映画ではないです。あとなんかこの状況自体がすごいボーっぽいと後から思ったりもした。
ただでも、不穏、なんだよな……すべての画面がなんでああもう不穏なんだろうな……それもあってか、自分は終始奇妙な緊張感があって、頭がさえて変な精神状態に突入してる感じがありました。わかりやすい娯楽作ではないし、終始「どこいくんだこれ」と思わされるふらふら感があるけれど、何を描いていて何を描きたいのかはかなりはっきりわかる演出の冴えがあるので、退屈というのもちょっと違う感じ。
あとこれ地味に予算ががっつりかかってる映画なので、画面の作りこみや美術が目で楽しい。その全部には「不穏」の文字が張り付いているのでなお楽しい。
ここからは具体的なネタバレ含む話。
私はどうもボーを見ながら終始ヘレディタリーのことを思い出してました。この「別に何でもないのに何故か画面全体が不穏で目が離せない」が展開されて、そのうちドンとすごい展開がくる感じがすごい似ているなと。
なんといってもヘレディタリーの一番のトラウマである「屋根裏部屋に追い込まれる」展開がボーでもあり、実際に恐ろしい事態が起きますが、ボーではすかさず助けが入ってくるので助かりました。ホラーだったら見ながら死んでたけど、コメディ(?)だから助かった。
振り返ってみると、屋根裏部屋に入ってからのボーは「いうてなかなか母親に屈服しない」態度が完全に折れてしまい、精神が急激に変化してファンタジーに突入する感じはヘレディタリーの展開そのままなんですよね。
ヘレディタリーにおいては、むしろこの展開前後は「はい、ホラー映画のノルマですー」と言わんばかりの展開を詰め込んでみせてるんですが、ボーではより抽象的な何か突入していく。
そうやってジャンルという外枠、ノルマをなくした分だけ、アリ・アスター作品がずっと「語っていたもの」がよりむき出しになってわかりやすくなっているように感じました。
家族という牢獄、特に母系家族が子に注ぐ重圧。その話何回目だよ! と思っちゃうけど、正直自分としては身に覚えがばんばんあり、毎回描写の解像度の高さが見事すぎてなんもいえねえ。
べらぼうに映画が美味いんだけど、毎回初見で困惑させられる不思議なクリエイター。次回作もみるぜ!
映画「身代わり忠臣蔵」を見てきたよ
映画「身代わり忠臣蔵」を見てきたよ
映画話の前にちょっと自分の話なのですが。
よく言ってるように、わたくしは今年の正月は実家のある富山で震度5強を経験し、今は現住所の石川に戻って生活をしています。
ここはインフラも問題なく普通に生活できているんですが、実は地震の影響で、県内の映画館のいくつは1月半ばまで休止してまして。そういった関係もあって、2月に入ってようやく映画館にいけました。
また一つ日常が戻ったのかな~と思ってましたが、この映画見ている時間にこっちも震度2が起きてるんでやんの(記事投稿する数日前です) まだまだ非日常の中にあるのだな、と感じます。
公式サイトより引用
正月といえば忠臣蔵だよな! とみてきました。2月だけど。正月が地震でぶっ飛んでしまったので、いまが正月ということで。
笑いあり涙あり不謹慎ネタありと、非常に楽しい人情ドラマでした。
忠臣蔵というといろんな切り口のある題材ですが、今回は事件の当事者である吉良上野介も浅野内匠頭も性格に難ありなキャラクターとして描かれ、それゆえ主人公である孝証と大石内蔵助が二人して「悩める上司に苦労する部下」と意気投合して事件を企てる……という点が面白いところで。
孝証と大石内蔵助が腐れ縁として出会い、そして互いに己の運命を知るまでの流れが楽しくも悲しい。
あくまでコメディではありますが、両者の死をもってしないと事態は止められないという悲劇性もあり、どちらの家にも守るべき生活たちがあり、そのために仮の当主としてふるまう二人の責任の追い方も丁寧でした。
それと、主人公が非武人ということもあり、なにかと武家社会の理屈で動きがちな題材の中で、適度にツッコミ入れてくれるのも個人的には良かったなと。「打ち首(死刑)より切腹(死刑)の方が名誉あること」とは、理解はできても理不尽だなと思ってるところに、孝証が「生きていてほしかった」と言ってくれるのは心地よい。
何百年前から大衆に愛される定番ドラマですが、現代ではなかなか作られないよね……っていうのは、10年以上前から聞いてましたが、いうて「決算!忠臣蔵(2019年)」「ラスト・ナイツ(2015年)」「最後の忠臣蔵(2010年)」など、それでもまだまだ定期的に作られてるよねと。あと直接的に扱わなくても「時は元禄……」から始まるタイプの時代劇、だいたいどこかで「この時、江戸では赤穂事件が起きており……」と登場するのもよくある。
それだけに時代の中で様々な変遷のあるドラマなので、いったいどんな潮流があったのか? というと、この番組がおすすめです。
私も見た後に聞きなおして、改めて今作の内容を考えたりもしました。
気軽に楽しくみられる一作としておすすめです。
映画話の前にちょっと自分の話なのですが。
よく言ってるように、わたくしは今年の正月は実家のある富山で震度5強を経験し、今は現住所の石川に戻って生活をしています。
ここはインフラも問題なく普通に生活できているんですが、実は地震の影響で、県内の映画館のいくつは1月半ばまで休止してまして。そういった関係もあって、2月に入ってようやく映画館にいけました。
また一つ日常が戻ったのかな~と思ってましたが、この映画見ている時間にこっちも震度2が起きてるんでやんの(記事投稿する数日前です) まだまだ非日常の中にあるのだな、と感じます。
嫌われ者の殿・吉良上野介(ムロツヨシ)が江戸城内で斬られ、あの世行き!
斬った赤穂藩主は当然切腹。だが、殿を失った吉良家も幕府の謀略によって、お家存亡の危機に!! そんな一族の大ピンチを切り抜けるべく、上野介にそっくりな弟の坊主・孝証(ムロツヨシ)が身代わりとなって幕府をダマす、前代未聞の【身代わりミッション】に挑む!
さらに、敵だったはずの赤穂藩家老・大石内蔵助(永山瑛太)と共謀して討ち入りを阻止するというまさかの事態に発展!? 幕府に吉良家に赤穂藩も入り乱れ、バレてはならない正体が…遂に!?
公式サイトより引用
正月といえば忠臣蔵だよな! とみてきました。2月だけど。正月が地震でぶっ飛んでしまったので、いまが正月ということで。
笑いあり涙あり不謹慎ネタありと、非常に楽しい人情ドラマでした。
忠臣蔵というといろんな切り口のある題材ですが、今回は事件の当事者である吉良上野介も浅野内匠頭も性格に難ありなキャラクターとして描かれ、それゆえ主人公である孝証と大石内蔵助が二人して「悩める上司に苦労する部下」と意気投合して事件を企てる……という点が面白いところで。
孝証と大石内蔵助が腐れ縁として出会い、そして互いに己の運命を知るまでの流れが楽しくも悲しい。
あくまでコメディではありますが、両者の死をもってしないと事態は止められないという悲劇性もあり、どちらの家にも守るべき生活たちがあり、そのために仮の当主としてふるまう二人の責任の追い方も丁寧でした。
それと、主人公が非武人ということもあり、なにかと武家社会の理屈で動きがちな題材の中で、適度にツッコミ入れてくれるのも個人的には良かったなと。「打ち首(死刑)より切腹(死刑)の方が名誉あること」とは、理解はできても理不尽だなと思ってるところに、孝証が「生きていてほしかった」と言ってくれるのは心地よい。
何百年前から大衆に愛される定番ドラマですが、現代ではなかなか作られないよね……っていうのは、10年以上前から聞いてましたが、いうて「決算!忠臣蔵(2019年)」「ラスト・ナイツ(2015年)」「最後の忠臣蔵(2010年)」など、それでもまだまだ定期的に作られてるよねと。あと直接的に扱わなくても「時は元禄……」から始まるタイプの時代劇、だいたいどこかで「この時、江戸では赤穂事件が起きており……」と登場するのもよくある。
それだけに時代の中で様々な変遷のあるドラマなので、いったいどんな潮流があったのか? というと、この番組がおすすめです。
私も見た後に聞きなおして、改めて今作の内容を考えたりもしました。
気軽に楽しくみられる一作としておすすめです。
映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」を見てきたよ
映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」を見てきたよ
封切り前のキービジュアルが好きで注目してたら、評判も良かったんで見てきたよ〜。
カッコいい!
現在放送中のテレビアニメの派生作品ながらに、基本的には独立した話なので特に事前チェックもなくすんなり見れました。
話自体は、戦後間もない日本の山村で起きる奇怪な殺人事件をめぐって、強大な権力を持った一族の謎に迫る……というもの。
太平洋戦争の出兵経験のある主人公・水木の視点を通し、民を虐げ搾取する権力者の存在を「売血」に重ねて描いていきます。
PG12指定だけあってはっきりと流血はありますが、個人的にはそこまで刺激的な要素には思えず……題材から言っても子供も見るかもしれないでしょうから、その線引きはあっていいよなと思ったくらい。ホラー要素に関しては風味があるだけでほぼないと思っていい。
ただ自分はこの辺かなり麻痺してるからな〜。次は北野監督の「首」も見たいんだよなって気軽に思ってるくらいなんで。
ともあれ、そんな重々しい舞台とテーマに対して、水木とゲゲ(鬼太郎の父)の交流シーンは軽やかで明るい。そこで育まれた絆と、陰惨な事件への対比が魅力でしょう。
多分今この日本で百億人くらい思ってると思うんですが、「ゴジラ-1.0でやんなかったことやってる」と思いました。
たまたまでしょうが、近い日付で封切りされたゴジラでは戦後日本の傷跡を描きながら戦争責任の描き方が曖昧で、戦争を賛美こそしないものの、「俺たちはもっと上手くやれたはず(上手くやれたら戦争にも勝てたはず?)」という思考が見える作りに対し、
本作では、主人公は出兵経験から権力志向を持つものの、しかし戦争により富と権力を得たものが人間も妖怪も搾取する様を見て、彼が絶望するまでを描いている。
戦争ってなんだったんだ? そこでは何が起きていたのか? 誰が傷ついて何が奪われたのか? そこへの道筋を描こうという意志を感じました。
終盤のあるシーンで、奪われ続け憎しみ続けていたものたちが、赤ん坊の鳴き声に反応して守ろうとする様は、栗原貞子の「生ましめんかな」を彷彿とさせます。
見ていて面白い映画ではありますが、難点を挙げるとすれば、女性の描き方でしょうか。
作中最も傷つき奪われていたとある女性に、できれば気持ちの整理をさせて欲しかったなと。
たとえ一番知られたくないことを知られて絶望しても、それでも自暴自棄にならなくていいと、どこかに回復の道はあるはずだと示せるような、彼女にそういう結論も欲しかったなと思います。
彼女はラストシーンでもチラリと出てきますが、演出から言っても別の人物の広義のケア要員のようにも描かれていて、そこはこれだけ他者に振り回されて奪われ続けた人間が、最後まで誰かの介添人として描かなくても良かったんじゃあないかなと。そういう気持ちも正直ありました。
ともあれ楽しい映画でした。
封切り前のキービジュアルが好きで注目してたら、評判も良かったんで見てきたよ〜。
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カッコいい!
現在放送中のテレビアニメの派生作品ながらに、基本的には独立した話なので特に事前チェックもなくすんなり見れました。
話自体は、戦後間もない日本の山村で起きる奇怪な殺人事件をめぐって、強大な権力を持った一族の謎に迫る……というもの。
太平洋戦争の出兵経験のある主人公・水木の視点を通し、民を虐げ搾取する権力者の存在を「売血」に重ねて描いていきます。
PG12指定だけあってはっきりと流血はありますが、個人的にはそこまで刺激的な要素には思えず……題材から言っても子供も見るかもしれないでしょうから、その線引きはあっていいよなと思ったくらい。ホラー要素に関しては風味があるだけでほぼないと思っていい。
ただ自分はこの辺かなり麻痺してるからな〜。次は北野監督の「首」も見たいんだよなって気軽に思ってるくらいなんで。
ともあれ、そんな重々しい舞台とテーマに対して、水木とゲゲ(鬼太郎の父)の交流シーンは軽やかで明るい。そこで育まれた絆と、陰惨な事件への対比が魅力でしょう。
多分今この日本で百億人くらい思ってると思うんですが、「ゴジラ-1.0でやんなかったことやってる」と思いました。
たまたまでしょうが、近い日付で封切りされたゴジラでは戦後日本の傷跡を描きながら戦争責任の描き方が曖昧で、戦争を賛美こそしないものの、「俺たちはもっと上手くやれたはず(上手くやれたら戦争にも勝てたはず?)」という思考が見える作りに対し、
本作では、主人公は出兵経験から権力志向を持つものの、しかし戦争により富と権力を得たものが人間も妖怪も搾取する様を見て、彼が絶望するまでを描いている。
戦争ってなんだったんだ? そこでは何が起きていたのか? 誰が傷ついて何が奪われたのか? そこへの道筋を描こうという意志を感じました。
終盤のあるシーンで、奪われ続け憎しみ続けていたものたちが、赤ん坊の鳴き声に反応して守ろうとする様は、栗原貞子の「生ましめんかな」を彷彿とさせます。
見ていて面白い映画ではありますが、難点を挙げるとすれば、女性の描き方でしょうか。
作中最も傷つき奪われていたとある女性に、できれば気持ちの整理をさせて欲しかったなと。
たとえ一番知られたくないことを知られて絶望しても、それでも自暴自棄にならなくていいと、どこかに回復の道はあるはずだと示せるような、彼女にそういう結論も欲しかったなと思います。
彼女はラストシーンでもチラリと出てきますが、演出から言っても別の人物の広義のケア要員のようにも描かれていて、そこはこれだけ他者に振り回されて奪われ続けた人間が、最後まで誰かの介添人として描かなくても良かったんじゃあないかなと。そういう気持ちも正直ありました。
ともあれ楽しい映画でした。
夏休みが始まり映画館の開場も朝7時に早まり、文字通り朝一の回でスーパーマンみてきて序盤からありえんくらいべっしょべしょに泣き腫らしてしまい、帰ってきても思い返しては涙が出てきて泣きすぎて頭痛がでて寝込んで休んでいまここです。
https://wwws.warnerbros.co.jp/superman/
誰もが知る「ヒーロー」といえばこの、説明不要のスーパーマン。実写映画でも時代ごとに何度もリメイクされ、その時その時のヒーロー像を描いてきたモチーフでしょう。私も80年代のクリストファー・リーブ版から始まり、近年のマンオブスティールまで、その間に合ったいくつかの作品も含めて数年おきに彼の姿を見てきました。
それぞれに良いところも悪いとこも思うところはあるけど、今作でなにがこんなにびーびー泣いてしまったかって、映画の中で描かれる人々の姿に感銘してました。
序盤、初っ端から苦戦するスーパーマンに一市民の男性が「あんた俺を助けてくれただろう」といって駆け寄って助け起こす姿にまずぶわっと高まり、彼のその後の顛末に悲しくて悔しくて涙し、同じく作中で彼の死を悔やむ人々にまた泣いてしまい、最後の一幕で新聞に彼の写真があることにとどめさされてしばらく立ち上がれなくなってしまう。
そう、彼が、彼のような、ひ弱で素朴で、けれど誰よりも強い人が居るから、私たちはこの世界をあきらめきれない。この世界には善性があるんだって信じたい。彼がいたからあの戦争を止めたいと強く思うし、世界が平和であってほしい。まさに彼があの世界の戦争を止めたんだ。
今作のスーパーマンが人一倍「人間くさい」と評されるのをしばしばみますが、個人的にはスーパーマン自身は別にいつもだいたい同じ悩み方をしていて、それこそ歴代でも最も「神聖視」が強調されたマンオブスティールと今作も大きな差を感じないというのが正直なところで。じゃあなにがそんなに違うように見えるのかといえば、スーパーマンとその周囲の人間の距離感や描き方では、と思うんですよね。
強大な力と孤独な立場と、時に柔らかすぎる優しさがスーパーマンの共通要素と思いますが、今作ではその彼の周囲にヒーローにしろ普通の人間たちにしろ、スーパーマンとは違う形で、でもちゃんとそれぞれの立場で世界のために行動する人たちがいる。それがスーパーマンの孤独さを相対的に薄めているんじゃないかと思います。
利益重視の企業所属ヒーローたちでも実利を超えた正義感で人を助け、お気楽そうに見えた人も聡明に行動し、クラークの両親は「親は子に役目を与えるのではなく、手段を用意するだけ」と言って生まれからくる呪いを解いて息子の背中を押し、ジャーナリストたちは報道の力で悪を刺す。
それはスーパーマンとは違う、スーパーマンにはできない戦い方で世界を良くしようとする人々でもある。それがこの映画の最後にスーパーマンが語る「みな本当は強い人間であるんだ」という言葉の証明になる。
逆にいえば、マンオブスティールはじめとしたDCEUのスーパーマンは友達がいなさすぎるんだよな……周囲のヒーローたちも距離置いてくるしさ……その距離感があの映画の「神聖視」の中身だよねと。それはそれでわかるものではあるんだけども。
それ以外では、今作のヒーロー像としてめちゃくちゃ「人命救助」にフィーチャーしてたのが良かったですね。近年のアメコミヒーローものといえばマーベル映画シリーズですけど、最近は「世界を滅ぼしかねない巨悪を倒す」とかは毎回やってますが、「いま危機にある人たちを助ける」シーンが年々少なくなってきてるような……今作は「でもヒーローのヒーローたる所以とは、窮地にある誰かを助けることではないのかよ!」という気概があって良かったです。
そんなマーベル映画も、最初に登場した2010年初頭はさらにその前時代に席巻していたダークナイトやX-MENのような「シックでダークなヒーロー像」に対して、「状況はシリアスでも、根っこに陽気さ明るさを持って世界を助ける」というヒーロー像で差別化し成功した例でもあったんですが、いままたそのヒーロー像が更新されているタイミングに来ているのだなあと感慨深くなりました。
今作の監督がマーベル映画で一躍注目されたジェームズ・ガンであるというのも、めぐりあわせを感じるところです(ジェームズ・ガンが過去の発言が問題視されて、一晩でディズニーから契約切られたときはびっくりしたな~)
今作のスーパーマンはまさに「今」のヒーロー像で、作中で描かれた侵略戦争は明らかにイスラエルによるパレスチナ侵攻を示しているよなあと。
作中でも侵略国家とアメリカ合衆国は「友好国」とされており、アメリカ企業はこの国に格安で武器を売り出し後援している。「侵略側にも言い分はあるし」と渋る世論に対して、スーパーマンは「いまそこで人々が殺されそうになっているんだぞ!」と一括する。
そう、そうなんだよ、複雑な背景があるからって、でもいまそこで武装した軍隊に、巨大な資本に、無差別に殺されている市民がいる。それを止めることに何の理由がいるのか。虐殺を止めて、「虐殺をしない」としたうえで問題の解決に進みましょうって。その心は止められないでしょうよ。
ひとつ思い出したことがありました。東北大震災が起きた直後に書かれたブログ記事で、「おそらくこの災害を描いた絵がこれからいっぱい生みだされるだろう。そこには既存のヒーローたちが駆けつけて、人々を助ける絵が描かれるだろう。でも、現実に、津波に飲まれたその瞬間にヒーローたちはいないんだ」という主旨が淡々と書かれていたのが印象的で、今も災害報道を見るたびそれを思い出すし、昨年の能登地震を被災した時にも思い返していました。
確かにそうなんだと思う。フィクションのヒーローたちはいなくて、戦争も災害もそうだし、私がむかし事故にあった瞬間も助けにくるヒーローはいなかった。
でもさ、決定的に助けられる人はいなくても、それでも助けたいっておもうんだよ。助けたいと思ってくれた見も知らない人が駆けつけてくれたから、私もいまここに生きていられる。つらい立場の人が居ることを知って、何かできないかと自然と湧き上がるその気持ちをきっと善性と呼ぶんだとおもうし、「そんな善性が、この世界にはあるんだ」と人々の心に宿すアイコンとしてヒーローたちは生み出されたんじゃないか。そう思うんですよ。
映画見た後、いてもたってもいられなくなってガザ支援の募金に少額ながら突っ込んできた。その気持ちをより強くして、選挙も行きました(もともと行く予定だった) 世界平和が早く訪れるようにと改めて祈ります。そういう力のある映画だと思いました。