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南柯そう/仲村のなんとかその日暮らしログ

映画「羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来」をみてきた

映画「羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来」をみてきた

やっと近所で封切りされた~とウキウキ見てきました。



https://luoxiaohei-movie.com/2nd/

かわいらしいルックで、ゴリゴリにわけわからんほど動くアクションが気持ちいい娯楽作ですが、内容は非常にシビア。

前作では一人で生きてきた妖精シャオヘイが、人間であり後に師匠になるムゲンと出会って成長し、やがて社会に根付く人間と妖精の軋轢を知る……というストーリーでしたが、なんと続編である本作では「今度は戦争だ」と有名なキャッチコピー通りな感じにスケールが拡大します。

本作のストーリーは、人間による妖精たちへの襲撃事件が発生し、また妖精を殺せる武器が流出。調査の結果、首謀者としてムゲンに容疑がかかり拘束される。シャオヘイとその姉弟子ルーイエは事件の真相を追う、というもの。事件を追ううちに妖精と人間間の武力衝突、つまりは戦争一歩手前まで事態が進展していきます。

前作は物語の導入が複数あり、正直中盤ほどまで「何の物語だ?」とやや混乱しやすい構造だったんですが、本作では一つの事件の真相を追う形になっていて非常に入りやすかったです。

また要所要所のアクションシーンがもうなんかわけわからんほどすごくてすごい。構図も動きもバッチバチに決まっているうえに、驚きとアイデアにあふれていて全く飽きない。これはねーほんと見てよかったね。

個人的に思うのは、なんていうかマーベル映画の良い方の作品っぽいよなと。これは前作見た時もちょっと思った。

アクションと言っても単純な殴り合いというだけではなく、「このアイテムを壊せば実質勝てるので、その攻防戦になる」とか「人命救助をしながら戦う」「拠点を守りながら戦う」「周囲を精神的に制圧するためのパフォーマンスとしての闘い」といったギミック戦が多いんですよね。シンプルな殴り合いシーンももちろんありますが、片や屋外での戦闘、片や閉鎖空間でのカメラ越しで眺める戦闘とか、毎回趣向を凝らしている。

このアイデアの凝らし方や飽きさせない工夫の持たせ方というと、やっぱりここ10年はマーベル映画がとにかく突出してすごくて、それをよく研究して昇華させている作品だなあと思います。閉鎖されているけど広い空間で戦うとか、画面の中にわかりやすい導線があるのでアクションシーンも見やすくなるといった工夫はルッソ兄弟っぽいよね。そういったハイブリットぶりが人気や興行収入にも表れていているんだろうなあと思います。

ストーリーに関しては、個人的に前作におけるシャオヘイの選択とは、作中の情報だけだと「ちょっと納得度が弱い」と感じていたんですが、今作ではそこが整理されていたなと。

前作では、作中でだされた結論に納得できたというより、「まあ、普通はそうなりますよね」とメタ的に飲み込んでるところがありまして。敵対勢力側に寄せた心を引き留める力が弱いように感じたんですよね。そもそも作品としてわかりやすい勧善懲悪ではなく、「虐げられた歴史を踏まえた今」という複雑な立場と軋轢をあぶりだす作品なので、どうしても敵対勢力側に心を寄せる力が強い。「それでもなんで?」の説得には非常にパワーが必要な題材でもあって。前作ではそこが少し弱く感じたなあと。

それで本作ですが「様々な立場の人がいて、そこは尊重しつつ、ある一線だけは守る」という形に整理されていて、そこが一番よかった。

特に「戦争忌避」の視点が非常によい。「戦争おこしてそこで全部決めたらあ!」と動く勢力に対して、戦争孤児である姉弟子ルーイエの過去や体験を通して、なぜそれを避けねばならないのかが示される構図が非常によかった。また交渉や事務方が戦争回避のために頑張ってる描写も良かったですね。

それこそ今の現実は、戦争を望んで起こしたり、起こそうとするべく分断と対立を煽る話があちこちにあるわけで。こんな世界で「なぜ戦争を起こしてはいけないのか」に真摯に向き合う物語を描いたことに、非常に価値があると思います。

テーマもシチュエーションもシリアスですが、見ている間は娯楽性にあふれて飽きさせない。本当に良い映画でした。

映画「爆弾」をみてきたよ

映画「爆弾」をみてきたよ

いきなり別作品の話で申し訳ないんだが、漫画「ひとりでしにたい」の中のこの一節を紹介します。

男も でかい岩が道ふさいでいる時 「俺がどかさなきゃ」って女にはわからない圧感じてるのかもね

これは作中で主人公の両親に介護の必要が発生したとき、やりたくない、できれば回避したいと本音では考えているんだけども、「ほかに大人がいても、女性である自分がやらなきゃいけないと動き出してしまうよう刷り込まれている」とぼやいている時の会話の一つです。女性である自分はこういう考えが根付いてしまっているけど、男性は男性でこう思ってるのかもね、という話ですね。

この回、ある世代以上の女性とは、仮に本人は自立していても「男が働き、女が家事をする」という両親像をみて育っているので、どこかでそういう女性像は刷り込まれているし、同じように刷り込まれている周囲の上の世代(特に男性)とそこで争うのはしんどい、という生活や社会にしみついたジェンダー論に踏み込んだ回でした。

さらに思い出すのは、「ひとりでしにたい」のとある回では、昭和の価値観ゴリゴリに根付いた還暦越えの父親が「母が倒れても、自分が母を看病したり、代わりに家事くらい受け持つという発想がない」ということに気づき、主人公がどうにか父に生活力を持たせようとあれこれ策をめぐらしても一蹴されてしまう。なのに、平成生まれの弟から「自分には専業主婦の妻がいるけど、妻が病気で倒れたら看病するし、今どきそれくらいしない男は他の男に馬鹿にされる」といわれて少しだけ父が考え直す、という話がありまして。

それをみた主人公は、女の自分が行っても聞く耳を持たないのに男である弟が「そんなことすれば、ほかの男からもバカにされる」と説明したとたんに父が説明を飲み込んだ様子を見て、「男男男 女がどこにもおらんな父の世界には」とあきらめた調子でナレーションします。

鑑賞中からふいにこれらのエピソードが浮かんだので、自分にとっての「爆弾」という映画とは、この「ひとりでしにたいの主人公からみた、父親や弟たちの世界」くらいの距離感だったのかも。



https://wwws.warnerbros.co.jp/bakudan-mo...

ちゃんと映画の話に戻すと、軽犯罪で捕まり事情聴取を受けていた身元不明の謎の男が、ふいに無差別爆弾事件を示唆したところ、実際に事件が起きてしまい……というサスペンススリラー映画です。

いわゆる密室劇、狭い取調室で登場人物らが会話だけで情報を引き出し続けるパートと、都内各地に隠された爆弾を探し出し、さらにはこの身元不明の男の正体を突き止めていくパートに分かれます。密室劇パートでは手練れの役者たちによる会話劇が、外部捜査パートでは大規模なロケを多用した迫力ある映像が続き、画面もリッチだし終始緊張感があって楽しい映画でした。

テーマやメッセージ性は現代的で、一昔前まで「無敵の人」は20代前後の若者として描かれることがほとんどでしたが(キレる17歳、なんて流行語もありました)、いまではすっかりその役は中年に移り、上の世代からも下の世代から疎ましく思われている。どうすればよかったんだろうな、と考えない日はない。

困った他者に手を握られたときに「頼られている」ではなく「利用されている」と思ってしまうのは、時代のせいか、それともそう思えない自分が悪いのか?

そういったことは割と自分にも刺さってとてもつらいのだけど、それはそれとして語っている語り口には、なんていうか、昔の2ちゃんねる見ているような気持ちになったのも事実で。

掲示板という同じフォーマット上で、同じ話題に対していろんな人が口々にしゃべってると思っていたら、「ここに女いる?」といわれて「あれ?ここって男性前提の場所だったか?」と急に自分の性別を想起させられる。とある友人は、在日コリアンや外国人への蔑称がカジュアルに飛び出してきて、在日三世の自分はここにいられないと思ったそうで。立場も何もかもフラットな場に見えて、実は「この身分でないやつはここにいない」と強固な共通意識が横たわっていて、ふとした時にそれがむき出し、自分たちは弾かれ、特定の身分の人間だけで固まっていくようなあの感じ。

メインの登場人物に女性も何人かいますが、周囲の男性たちには向けられない下卑た性的侮蔑を投げかけられたり、悲劇性のスイッチになっていたり。前述の「ひとりでしにたい」の説明にのっとるなら、「父親や弟たちの世界からみた女性はこうなのかな」という存在感に思えました。

登場人物が主に男性しかいないから女性の居場所がないとか、そういう単純な話とも思っていませんが、でもこの映画はかなり意図して「そういう世界だから描けること」を志向しているのはわかるよ。

もしかすればそういう世界観とは、冒頭で引用した言葉が指すように「石が落ちてきたら俺がどかさないといけない」「そうしないと落ち着かないよう刷り込まれている」でも実際には「そんなことしたくない」の狭間に生まれてる悲鳴なのかなと、時々思う時がある。

最終的に思い浮かんでいたのはそういうなにかだったので、ここに書いときます。

映画「果てしなきスカーレット」をみてきたよ

映画「果てしなきスカーレット」をみてきたよ

「は」てしなきすかー「れっと」⇒「ハムレット」ってこと!? と鑑賞後に気づき、どーしても人に言いたくなったのでいま緊急でこれ書いています。ついでに感想も書きます。



https://scarlet-movie.jp/

父を殺され復讐鬼と化した主人公スカーレットが、仇である叔父から返り討ちにあってなお、それでもまだ復讐を遂げたい一心で「死者の国」を駆け巡るというストーリー。

Jin Kimさんデザインの、ディズニーアニメだったら「生命力」の証であろう力強いキラキラした目の女性が、眼光鋭くギラついた目つきになり、ほつれた髪に煤けた真っ黒な顔で荒野を駆け巡る予告編をみて「みたーい」と思ってすぐさまみてきました。このデザインと世界観だけで割ともう元は取ったなあと思っています。

シェイクスピアの「ハムレット」をベースに血と泥にまみれた時代劇かつ復讐劇なので、画面は暗く、おどろおどろしい描写も多い。あと展開が舞台や時代劇特有のノリというか端折り方をよくするので、飲み込みやすい展開を期待すると辛いかも。小さいお子さんと一緒に見るには難しいだろうな。

とはいえ、メッセージ自体は「死がすぐそこにある世界の中でも、善く生きたい」をシンプルにつきつけてくる。それはもう直球でつきつけてくる。

重厚感のあるルックに、細田監督が得意とするエモーショナルな心理描写、びっくりするほどまっすぐなストーリーテリングに、画面をみていて飽きることはないんですが、常にもう一フックほしいという気持ちもちょっとある。

なんというか、セリフ量のわりに展開に予備動作が少なすぎて、話の起伏が大きくなりすぎにすーっと流れすぎちゃうというか。個々のエピソードもパンチ力が弱く思えて、結果クライマックスの起伏も気持ちが上がりきらないところがある。

復讐心にかられて獣のように生きてきたスカーレットが、死者の国に降り立ち、時空も文化も超えて集まる死者たちとの交流を通して、人間性を獲得していく……それはわかる。鑑賞後に振り返ってみたけれど、説明不足や展開不足とも違う気がして。

語るべきことは語っているし、この展開でやるべき展開はちゃんと踏んでいる。内容に不足があったとも思わないんですよね。

ただ、昔「おおかみこどもの雨と雪」が封切りされたころ、ある知人が「脚本上にのちの展開を見据えた前振りが少なくて、各エピソードの落ちが弱く感じる」と評していましたのを思い出しました。

ちなみに、別の知人はそれを受けて「それをすればより脚本を『丸く』できるだろうけど、やらないこと選んでる人だと思う」とも評してて、どちらの意見にも強い納得があってよく覚えています。

そういう作劇上のフックを増やすと、より感情的に盛り上げたり、説明がわかりやすくなったりするけども、そこの風通りの良さは求めてない気がするんですよね。

世間的には「家族で楽しく見れる作家性」のように受け取られているけれど、実際のところアーティスティックで少し突き放した世界観だけど、それでも強く魅せることに長けている作家性だよねえと。近年はその傾向がより強かったですが、今作ではそれがよりむき出しできたのかなと。

あと、細田監督恒例の「今が旬の男性俳優にこういう役やらせたーーーーい!!!!」もしっかり浴びれたのでよかったです。岡田将生にこういう役やってほしいよね~~~わかる~~~ってなった。

自分は世間で言われるほど「女性に魅力がない」とは思わないというか、「こういう男を生かすには、こういう人間がそばいるといい」と理解したうえで描いてる人だと思うので、女性キャラも十分に描いている人に思える。作品によっては「そのポジションは別にいつも女性とは限らない」はあるけども、配置する以上は魅力的に描いている人だよなと思っています。

むしろ「魅力的な男性キャラ」とは「魅力」が前に出すぎて案外と内面的に掘り下げられてない、物語の駆動のためにいるキャラになりがち……ということも、本作を見ていて感じたところです。

思うところはいっぱいあるんですが、主人公スカーレットが赤い髪をなびかせて、煤けた荒野で、雷降りしきる曇天の下で、鋭くとがった雪山で、復讐の炎を胸に、時空を超えた人々が集まる死者の国で、何を得るのか。

本作は、ある側面では主人公の内面的葛藤、一人芝居だったとも取れる内容だし、それでなくとも死者の国というシステムがtheファンタジー空間なわけで。客観的な筋道の整理は意図して省いてるんじゃあないかと思います。

どんだけ自分が苦しんで、葛藤しても、生涯の目標なんて自分と関係なく無くなってしまうことがある。じゃあ自分はどうすればいいのか。

生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。

ハムレットでは「復讐を遂げるべきか」という文脈で語られた言葉が、果てしなきスカーレットではどう使われているのか、という点は非常に興味深く思えました。

その世界観だけでかなりぐっと引き込まれたので自分は満足でした。

映画「スーパーマン」をみてきた

映画「スーパーマン」をみてきた

夏休みが始まり映画館の開場も朝7時に早まり、文字通り朝一の回でスーパーマンみてきて序盤からありえんくらいべっしょべしょに泣き腫らしてしまい、帰ってきても思い返しては涙が出てきて泣きすぎて頭痛がでて寝込んで休んでいまここです。



https://wwws.warnerbros.co.jp/superman/

誰もが知る「ヒーロー」といえばこの、説明不要のスーパーマン。実写映画でも時代ごとに何度もリメイクされ、その時その時のヒーロー像を描いてきたモチーフでしょう。私も80年代のクリストファー・リーブ版から始まり、近年のマンオブスティールまで、その間に合ったいくつかの作品も含めて数年おきに彼の姿を見てきました。

それぞれに良いところも悪いとこも思うところはあるけど、今作でなにがこんなにびーびー泣いてしまったかって、映画の中で描かれる人々の姿に感銘してました。

序盤、初っ端から苦戦するスーパーマンに一市民の男性が「あんた俺を助けてくれただろう」といって駆け寄って助け起こす姿にまずぶわっと高まり、彼のその後の顛末に悲しくて悔しくて涙し、同じく作中で彼の死を悔やむ人々にまた泣いてしまい、最後の一幕で新聞に彼の写真があることにとどめさされてしばらく立ち上がれなくなってしまう。

そう、彼が、彼のような、ひ弱で素朴で、けれど誰よりも強い人が居るから、私たちはこの世界をあきらめきれない。この世界には善性があるんだって信じたい。彼がいたからあの戦争を止めたいと強く思うし、世界が平和であってほしい。まさに彼があの世界の戦争を止めたんだ。

今作のスーパーマンが人一倍「人間くさい」と評されるのをしばしばみますが、個人的にはスーパーマン自身は別にいつもだいたい同じ悩み方をしていて、それこそ歴代でも最も「神聖視」が強調されたマンオブスティールと今作も大きな差を感じないというのが正直なところで。じゃあなにがそんなに違うように見えるのかといえば、スーパーマンとその周囲の人間の距離感や描き方では、と思うんですよね。

強大な力と孤独な立場と、時に柔らかすぎる優しさがスーパーマンの共通要素と思いますが、今作ではその彼の周囲にヒーローにしろ普通の人間たちにしろ、スーパーマンとは違う形で、でもちゃんとそれぞれの立場で世界のために行動する人たちがいる。それがスーパーマンの孤独さを相対的に薄めているんじゃないかと思います。

利益重視の企業所属ヒーローたちでも実利を超えた正義感で人を助け、お気楽そうに見えた人も聡明に行動し、クラークの両親は「親は子に役目を与えるのではなく、手段を用意するだけ」と言って生まれからくる呪いを解いて息子の背中を押し、ジャーナリストたちは報道の力で悪を刺す。

それはスーパーマンとは違う、スーパーマンにはできない戦い方で世界を良くしようとする人々でもある。それがこの映画の最後にスーパーマンが語る「みな本当は強い人間であるんだ」という言葉の証明になる。

逆にいえば、マンオブスティールはじめとしたDCEUのスーパーマンは友達がいなさすぎるんだよな……周囲のヒーローたちも距離置いてくるしさ……その距離感があの映画の「神聖視」の中身だよねと。それはそれでわかるものではあるんだけども。

それ以外では、今作のヒーロー像としてめちゃくちゃ「人命救助」にフィーチャーしてたのが良かったですね。近年のアメコミヒーローものといえばマーベル映画シリーズですけど、最近は「世界を滅ぼしかねない巨悪を倒す」とかは毎回やってますが、「いま危機にある人たちを助ける」シーンが年々少なくなってきてるような……今作は「でもヒーローのヒーローたる所以とは、窮地にある誰かを助けることではないのかよ!」という気概があって良かったです。

そんなマーベル映画も、最初に登場した2010年初頭はさらにその前時代に席巻していたダークナイトやX-MENのような「シックでダークなヒーロー像」に対して、「状況はシリアスでも、根っこに陽気さ明るさを持って世界を助ける」というヒーロー像で差別化し成功した例でもあったんですが、いままたそのヒーロー像が更新されているタイミングに来ているのだなあと感慨深くなりました。

今作の監督がマーベル映画で一躍注目されたジェームズ・ガンであるというのも、めぐりあわせを感じるところです(ジェームズ・ガンが過去の発言が問題視されて、一晩でディズニーから契約切られたときはびっくりしたな~)

今作のスーパーマンはまさに「今」のヒーロー像で、作中で描かれた侵略戦争は明らかにイスラエルによるパレスチナ侵攻を示しているよなあと。

作中でも侵略国家とアメリカ合衆国は「友好国」とされており、アメリカ企業はこの国に格安で武器を売り出し後援している。「侵略側にも言い分はあるし」と渋る世論に対して、スーパーマンは「いまそこで人々が殺されそうになっているんだぞ!」と一括する。

そう、そうなんだよ、複雑な背景があるからって、でもいまそこで武装した軍隊に、巨大な資本に、無差別に殺されている市民がいる。それを止めることに何の理由がいるのか。虐殺を止めて、「虐殺をしない」としたうえで問題の解決に進みましょうって。その心は止められないでしょうよ。

ひとつ思い出したことがありました。東北大震災が起きた直後に書かれたブログ記事で、「おそらくこの災害を描いた絵がこれからいっぱい生みだされるだろう。そこには既存のヒーローたちが駆けつけて、人々を助ける絵が描かれるだろう。でも、現実に、津波に飲まれたその瞬間にヒーローたちはいないんだ」という主旨が淡々と書かれていたのが印象的で、今も災害報道を見るたびそれを思い出すし、昨年の能登地震を被災した時にも思い返していました。

確かにそうなんだと思う。フィクションのヒーローたちはいなくて、戦争も災害もそうだし、私がむかし事故にあった瞬間も助けにくるヒーローはいなかった。

でもさ、決定的に助けられる人はいなくても、それでも助けたいっておもうんだよ。助けたいと思ってくれた見も知らない人が駆けつけてくれたから、私もいまここに生きていられる。つらい立場の人が居ることを知って、何かできないかと自然と湧き上がるその気持ちをきっと善性と呼ぶんだとおもうし、「そんな善性が、この世界にはあるんだ」と人々の心に宿すアイコンとしてヒーローたちは生み出されたんじゃないか。そう思うんですよ。

映画見た後、いてもたってもいられなくなってガザ支援の募金に少額ながら突っ込んできた。その気持ちをより強くして、選挙も行きました(もともと行く予定だった) 世界平和が早く訪れるようにと改めて祈ります。そういう力のある映画だと思いました。

映画「ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング」をみてきたよ

映画「ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング」をみてきたよ

感謝……!!



相変わらずトム・クルーズのクレイジーなアクションシーン乱れ撃ちに、「はわわわわわ、あぶなーーーーーい!!!」ってドキドキしながら見てきました。なんかもう今こんなにハラハラできる映画もそうない。ありがあとうトム。ほんとうにどうかしている。

前作「デッド・レコニング」では、コロナ渦で出演者といえどもほとんど身体接触できない状況で撮影したとあって、全体にやや盛り上げに欠ける感じがありましたが、今作ではそれらを取り戻す勢いで頭がおかしい。いやここ10年分はずっとおかしかったけど。

この映画の主人公イーサン・ハントは、それこそ007やらなんやらに並ぶ「超人スパイ」なわけですけど、ミッションインポッシブルの特色とは「映画の登場人物イーサン・ハントがやってることは、実在人物であるトム・クルーズも同じことができる」という点で。なんでこんなことしてんだ。いやトム本人が最高責任者だからだれも止める人が居ないってだけなんだが。

そんな過激なアクションシーンの傍ら、「暴力的なシーンは直接映さず、それを観測している人間のリアクションで演出する」とか「そこにいた人間が消えたと思ったら、次のカットで血まみれの手首が見える」といった、クラシックな映画演出がふんだんに盛り込まれていて、トム・クルーズはじめとした制作者たちは「アクションシーンも含めた、かつての映画の面白さ」をどうにか残したいんだなあという心意気を感じる。単なる命知らずのジャンキーってわけじゃなく、映画人としての姿勢が見えてくるんですよね。

今作ははっきりとこれまでのMIシリーズの集大成として位置づけられており、あーほんとに一回ここで畳むんだな~ってしみじみしちゃう。まあ気が向いたらまた映画を撮るんでしょう。そういう人だと思う。

映画「シビル・ウォー アメリカ最後の日」をみてきた

映画「シビル・ウォー アメリカ最後の日」をみてきた

頭がぐわんぐわんする。



内戦が起きたアメリカで、正規軍率いる現大統領に対して反乱軍が激闘を繰り広げる状況の中、「大統領の最後のインタビューを撮る」ため、最前線であるワシントンD.Cに向かうジャーナリストたちの旅を描いたロードムービーです。

崩壊した社会秩序、誰がどの勢力かわからない状況の中、目の前でもしくは自分に対して向けられる暴力の数々。兵士だから市民だからどの陣営だなんて関係ない。どこに誰がいるのかもわからない。ただただ「自分の」前に暴力は広がっている。

だけど、その暴力の根っこには確実に「今の現実にある」差別や社会的階級が根を張っている。一番最初に出会うガソリンスタンドで繰り広げられた惨劇は「高校が同じだったけど、話はしなかった」もの同士で起きているし、道中で行き当たった殺戮者は有色人種を狙って殺す。これが現実じゃないって誰が言えるのか。

その一方で、戦地の真っただ中でありながら、おそらくは強力な暴力組織に守られて、秩序と平穏を享受する町がぽつんとある。だからこれは、世界の縮図であり戯画なんだろうと。すぐそこに暴力に満たされた地域があり、でもほんの少しの違いで、平穏な地域がある。でも結局後者とは、それはそれで別の暴力によって囲われているに過ぎない。そこに住む住民たちは「ニュースで見てる。近寄らないようにしてる」とこともなげにいう。なんかここがもう本当に刺さる。我々の姿じゃないか。

私は石川在住で、住んでいるところは平穏そのものですが、ほんの数キロ車を走らせれば、まだまだ地震被害が色濃く残る地域がそこにあります。私の姿を、あの町の住民に見て知って泣けてくる。

それをひたすらに記録するジャーナリストたち。もちろん彼らにも暴力は及び、時に取り返しのつかない傷をつけられ、それでも「今起きていること」を残し、伝えるために記録する。それだけの映画でもあるし、それほどまでに、と言いたくなるような、ものすごいパンチを繰り出してくる映画でした。

なにかできることはあるだろうか。

映画「マッドマックス:フュリオサ」見てきたぞ

映画「マッドマックス:フュリオサ」見てきたぞ

2015年に世界の映画史を塗り替えた「マッドマックス 怒りのデスロード(以下FR)」のスピンオフだーーーーーーーーー!!!

荒れた大地とすみわたる空の下で、美しく精緻な構造と色彩で彩られ、血とガソリンと爆発の中で誕生する英雄フュリオサの始まり。

前作FRでは監督自身が「一つのチェイスで繋がる映画を撮りたかった」というだけあってとにかく展開が止まらない作品でしたが、フュリオサは6章からなる物語で作中時間も15年かかっておりかなり趣は異なります。

バイオレンス描写ははっきりと増えてます。元々相当に殺伐とした世界観ではあるんですが、FRではスピード感が凄すぎてパッと流れちゃってたようなものが、本作は普通に正面から撮るので苦手な人は要注意。

前作ではかすったくらいだった世界描写も、今作ではそれが本旨かなってくらいにあの世界の街の様子が正面から描かれていて楽しい。

あんなに殺伐とした終末世界なのに、どこか歴史と文化の重厚さも感じる手つきは、同監督の「アラビアンナイト 3000年の願い」と彷彿とさせます。西アジアの煌びやかで崇高な文化が、マッドマックスの世界にも生きているんだなあ。

で、ストーリーはガッツリFRに接続するし、不屈さと希望を感じる終わり方にグッとくる。

「何者にも屈しない」と面一発で語るフュリオサの瞳が印象的で、それでいてその所作は冷静沈着そのもの。なんかねーほんとこの一切の無駄をと怯えを感じない立ち振る舞いに見惚れちゃうんだよね……こんなん好きになっちゃうよ!!!!

その一方で「こんな目に遭ってるのに故郷は……」と後の展開を思って泣けてくる。涙を流すシーンはいくつかありますが、彼女が慟哭するのはあのシーンだけなんだ……。

そう、今回の映画でわかったのは、フュリオサ自身の復讐はここで一旦けじめがついてること。イモータンジョー自身にも多少の恨みはあるとしても、彼女がFRで逃避行を選んだのは、決して恨みだけじゃなかった。

彼女は母との約束、故郷へ帰ることを渇望してたし、それは彼女の生きる理由そのもので、生きたいからこそ囚われの子産み女たちを引き連れてFRの旅は始まった。

フュリオサが、逃亡の手伝いになるとはいえない彼女らを連れ出したのは、復讐の果てに見つけた「我欲の成れの果て」に向き合ったからだろうか、と。

エゴ以外の何かを連れて、生きるために逃げ出す。それは英雄と呼ばれる素質なんじゃないでしょうか。

エンドロールを見ながらそう考えて、なんだか心が元気になりながら帰ってきました。

2015年、マッドマックスFRは前知識なしに日本での封切り日翌日に見て、そこから半年くらいずっとこの映画のこと考え続けるくらいに刺さってしまった時代の大傑作だと思っています。

観たその日はずっと「うわ、これからはこの映画がある世界なのか」「これから生まれるあらゆる映画や創作物は、この映画と比較されてしまうんだ」とぐるぐる考えてしまってたのを覚えています。

その後、世間でもこの衝撃が伝わり、カルト的人気を誇るわけですが、あの時まだ誰の感想も評論も見ないままに映画観てショックを受けたのはほんとに得難い体験でした。

あの時の衝撃は今もあるし、実際やっぱり「変わった」実感もあって、時代を目の当たりにできたこと誇りに思っています。

フュリオサも一本で楽しめる映画ですが、是非ともここからマッドマックス怒りのデスロードも見て欲しい。これが世界を変えた一本ですよと。

映画「陰陽師0」を見てきたよ

映画「陰陽師0」を見てきたよ

原作やコミックは未読でうすらぼんやりタイトルは知ってる程度ですが、多分これあんまり原作関係ないやつですよねそれはわかる。

陰陽道と言いつつ、現代人にも理解しやすい科学的な視点で分解し、でも作中でハッタリ利かすところは利かしてみせる(集団催眠てそんな長時間かかるか?とか)というバランスが良かったですね。

視覚効果が強調されてる予告でしたが、使い所は限定的で短めで、スペクタクル感は思ってるよりは弱く感じました。中盤の大立ち回りもワイヤーを駆使して大きく動く割に、微妙にカメラに収まっておらず迫力不足でもったいなかったな。

それよりも、大きなセットやロケを多用したドラマパートが楽しかったなあと。もっとミステリーパートを長くして、あの学舎や街並みの中を彼らが行き交う様はもっとたくさん見たかったな〜。

それと衣装の使い方が良かったですね。身分の高いものは分厚く濃い色の服を着て、低いものほど布がくたびれた質感になっており、後述する安倍晴明の異様さも衣装で演出されてたように思います。

あとは何より主人公安倍晴明とその相棒の源博雅のキャラクターが魅力的。

晴明を演じる山崎賢人氏は、これまでは活発な青年役が印象的でしたが、感情の起伏が小さく抑えた演技も良かった。

アクションも上手い俳優さんながらに華奢な人だなと思ってましたが、本作ではその細さがキャライメージにも合ってました。周囲と違って一人だけ体の線が出やすい衣装なのも、その性質をより際立たせていて上手い演出でした(周りの男性陣は肩や胴回りをふっくらと厚みを出す構造の服なのに、晴明は肩から腰にかけてストンと落とした衣装)

染谷将太氏が演じる博雅の、情緒に溢れたキャラクターとのバディ感が気持ちよく、この2人の化学反応は本作一番の見どころと言っていいでしょう。

次回作があるかどうかはわからないところですが、彼らの表情やドラマに注目したものだったら良かったな〜と思うくらい、ずっと見ていたくなるコンビ感でした。

劇場版『名探偵コナン100万ドルの五稜星』を見てきたよ

劇場版『名探偵コナン100万ドルの五稜星』を見てきたよ

原作は飛び飛びで読み、劇場版はゼロの執行人から見始めるというミーハーですよろしくお願いします。

正直そこまで期待して見てるわけでもないんですが、「とにかく派手な絵面と展開でドカンドカンを安定してやってくれる」という一点で毎年楽しみです。

そんな私はゼロ執や黒鉄よりも、今年の方が好きかな〜。

絵的に派手なのは名前あげた作品たちなんですが、この辺は派手さ優先で元々薄い話がさらに薄く話が前後で繋がっておらず、それでいて当番回のキャラには大きく尺をとって魅せようとするから、唐突に心理描写が始まるな、と感じて個人的にはそこまで評価が高くないです。

今回は、謎解きはあくまで物語を駆動するための装置で、半ば都合よく次々明かされていきますが、やりたいのはそうやって展開が動く中でのドラマ部分だと受け取りました。

キッドと警察の関係、ゲストキャラの人物関係、そして服部とコナンとキッドの距離感。やや情報過多ではありますが、ドラマを繋げて、ここにしかない場に到達しようとしてる点は評価したい。

あと、函館警察vs外国人マフィアvsテロリスト24時!!!って感じで、街中で発砲も爆発起きるし、完全に函館の街が抗争状態なのに登場人物らが誰も気にしないのが狂ってて良かったですね。

いや気にしろよ。今更コナン世界にそこいってもしょうがないんか……。

とはいえ、「函館に眠る宝」の真相は好みでした。こんな諍いの結末は、恐ろしく無為であるべきだ。

ラストで明かされるとある設定は、「ん??あれ??これ既出????」と思わず調べましたが初出情報らしい。劇場版でそんなことするのかーとちょっと驚き。

来年も見まーす。

映画「ゴジラxコング 新たなる帝国」を見てきたよ

映画「ゴジラxコング 新たなる帝国」を見てきたよ

我らがモンスターバースの最新作が出たぞー

ご存じゴジラさんを中心とした怪獣サンたちが集結!! 地球の覇権を狙う新たな怪獣たちとどったんバッタン大騒ぎ!!

とにかく怪獣が暴れてくれたらいいんじゃい!!っていう映画ですが、実際に映画館で隣になった小学生くらいの男子が、ゴジラの登場シーンで「かっこいい……」と呟いてたの良かったです。

個人的には、ゴジラやコングはカッコいいけど、敵役の怪獣が毎回ちょっとダサいのが辛いなと。

今回の敵役「スカーキング」は過去にゴジラとも戦い封印された強敵ですが、やってることがせこい。暴力で支配し、子供や年寄りコングたちを虐め抜き、自分以上に強い古代竜を従えることでようやく上位に立ってるだけで、めちゃくちゃ小物なんだよな〜。

こういうのは敵役にもかっこよさや格の高さを見せてほしい〜。

あとこのシリーズのゴジラはモスラにはちょっと頭が上がらないタイプで、勢い喧嘩初めてもモスラさんの仲介で待ってくれるが、そこもちょっとゴジラの格を下げてるように思えて好みではない……いや歴代のモスラにそういう要素がないとは言わんがー。

総じて、「人類の意に沿わず、人類文明を破壊しうる暴力装置」を信じてるようで信じてないというか、「どこかで制御できるものである」と考えてる感じが怪獣に対する解釈と違うなと。「どうやったって襲いくるもの」という側面に、ひたすら目を瞑ってる感じが危なっかしい。

そんな怪獣サンを上位存在に置き、人類の文明や人類がどんだけ毀損しようとも構わないガンギマリ人類組織のモナークが本当に異様。

一応ゴジラもコングも人類を守ってくれてる風だけど、でも全然こいつらも都市を大破壊しまくってるんで、これを守護者として仰いでるモナークまじ過激派異常集団なんだが、作中で「人間も食物連鎖の一つ。怪獣はそのことを思い出させてくれる」というセリフがありますが、その割に怪獣たちのコントロールも志向してるように見えて、どうにも作り手の欺瞞を感じる。

今作でちょっと面白いなと思ったのが、「発声」以外のコミュニケーションが多く表現されてたこと。

主人公の博士と娘は手話で会話するし、地底文明の人類やコングたちとはほぼ身振り手振りで会話する。それでも映画を見てる側にも何を言ってるのか、やりたいのかが伝わってくるのは、異文化や異種族を描く上で効果的な演出だなと。スターウォーズシリーズでもよくありますね。

考え方の違いは感じますけど、でも怪獣たちが躊躇なく建造物を倒しまくって大暴れする様に惹かれる気持ちはよくわかる。次回作があるかはわからんけどどこまで行くのかは気になるシリーズです。
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