映画「スーパーマン」をみてきた 映画「スーパーマン」をみてきた 夏休みが始まり映画館の開場も朝7時に早まり、文字通り朝一の回でスーパーマンみてきて序盤からありえんくらいべっしょべしょに泣き腫らしてしまい、帰ってきても思い返しては涙が出てきて泣きすぎて頭痛がでて寝込んで休んでいまここです。 https://wwws.warnerbros.co.jp/superman/ 誰もが知る「ヒーロー」といえばこの、説明不要のスーパーマン。実写映画でも時代ごとに何度もリメイクされ、その時その時のヒーロー像を描いてきたモチーフでしょう。私も80年代のクリストファー・リーブ版から始まり、近年のマンオブスティールまで、その間に合ったいくつかの作品も含めて数年おきに彼の姿を見てきました。 それぞれに良いところも悪いとこも思うところはあるけど、今作でなにがこんなにびーびー泣いてしまったかって、映画の中で描かれる人々の姿に感銘してました。 序盤、初っ端から苦戦するスーパーマンに一市民の男性が「あんた俺を助けてくれただろう」といって駆け寄って助け起こす姿にまずぶわっと高まり、彼のその後の顛末に悲しくて悔しくて涙し、同じく作中で彼の死を悔やむ人々にまた泣いてしまい、最後の一幕で新聞に彼の写真があることにとどめさされてしばらく立ち上がれなくなってしまう。 そう、彼が、彼のような、ひ弱で素朴で、けれど誰よりも強い人が居るから、私たちはこの世界をあきらめきれない。この世界には善性があるんだって信じたい。彼がいたからあの戦争を止めたいと強く思うし、世界が平和であってほしい。まさに彼があの世界の戦争を止めたんだ。 今作のスーパーマンが人一倍「人間くさい」と評されるのをしばしばみますが、個人的にはスーパーマン自身は別にいつもだいたい同じ悩み方をしていて、それこそ歴代でも最も「神聖視」が強調されたマンオブスティールと今作も大きな差を感じないというのが正直なところで。じゃあなにがそんなに違うように見えるのかといえば、スーパーマンとその周囲の人間の距離感や描き方では、と思うんですよね。 強大な力と孤独な立場と、時に柔らかすぎる優しさがスーパーマンの共通要素と思いますが、今作ではその彼の周囲にヒーローにしろ普通の人間たちにしろ、スーパーマンとは違う形で、でもちゃんとそれぞれの立場で世界のために行動する人たちがいる。それがスーパーマンの孤独さを相対的に薄めているんじゃないかと思います。 利益重視の企業所属ヒーローたちでも実利を超えた正義感で人を助け、お気楽そうに見えた人も聡明に行動し、クラークの両親は「親は子に役目を与えるのではなく、手段を用意するだけ」と言って生まれからくる呪いを解いて息子の背中を押し、ジャーナリストたちは報道の力で悪を刺す。 それはスーパーマンとは違う、スーパーマンにはできない戦い方で世界を良くしようとする人々でもある。それがこの映画の最後にスーパーマンが語る「みな本当は強い人間であるんだ」という言葉の証明になる。 逆にいえば、マンオブスティールはじめとしたDCEUのスーパーマンは友達がいなさすぎるんだよな……周囲のヒーローたちも距離置いてくるしさ……その距離感があの映画の「神聖視」の中身だよねと。それはそれでわかるものではあるんだけども。 それ以外では、今作のヒーロー像としてめちゃくちゃ「人命救助」にフィーチャーしてたのが良かったですね。近年のアメコミヒーローものといえばマーベル映画シリーズですけど、最近は「世界を滅ぼしかねない巨悪を倒す」とかは毎回やってますが、「いま危機にある人たちを助ける」シーンが年々少なくなってきてるような……今作は「でもヒーローのヒーローたる所以とは、窮地にある誰かを助けることではないのかよ!」という気概があって良かったです。 そんなマーベル映画も、最初に登場した2010年初頭はさらにその前時代に席巻していたダークナイトやX-MENのような「シックでダークなヒーロー像」に対して、「状況はシリアスでも、根っこに陽気さ明るさを持って世界を助ける」というヒーロー像で差別化し成功した例でもあったんですが、いままたそのヒーロー像が更新されているタイミングに来ているのだなあと感慨深くなりました。 今作の監督がマーベル映画で一躍注目されたジェームズ・ガンであるというのも、めぐりあわせを感じるところです(ジェームズ・ガンが過去の発言が問題視されて、一晩でディズニーから契約切られたときはびっくりしたな~) 今作のスーパーマンはまさに「今」のヒーロー像で、作中で描かれた侵略戦争は明らかにイスラエルによるパレスチナ侵攻を示しているよなあと。 作中でも侵略国家とアメリカ合衆国は「友好国」とされており、アメリカ企業はこの国に格安で武器を売り出し後援している。「侵略側にも言い分はあるし」と渋る世論に対して、スーパーマンは「いまそこで人々が殺されそうになっているんだぞ!」と一括する。 そう、そうなんだよ、複雑な背景があるからって、でもいまそこで武装した軍隊に、巨大な資本に、無差別に殺されている市民がいる。それを止めることに何の理由がいるのか。虐殺を止めて、「虐殺をしない」としたうえで問題の解決に進みましょうって。その心は止められないでしょうよ。 ひとつ思い出したことがありました。東北大震災が起きた直後に書かれたブログ記事で、「おそらくこの災害を描いた絵がこれからいっぱい生みだされるだろう。そこには既存のヒーローたちが駆けつけて、人々を助ける絵が描かれるだろう。でも、現実に、津波に飲まれたその瞬間にヒーローたちはいないんだ」という主旨が淡々と書かれていたのが印象的で、今も災害報道を見るたびそれを思い出すし、昨年の能登地震を被災した時にも思い返していました。 確かにそうなんだと思う。フィクションのヒーローたちはいなくて、戦争も災害もそうだし、私がむかし事故にあった瞬間も助けにくるヒーローはいなかった。 でもさ、決定的に助けられる人はいなくても、それでも助けたいっておもうんだよ。助けたいと思ってくれた見も知らない人が駆けつけてくれたから、私もいまここに生きていられる。つらい立場の人が居ることを知って、何かできないかと自然と湧き上がるその気持ちをきっと善性と呼ぶんだとおもうし、「そんな善性が、この世界にはあるんだ」と人々の心に宿すアイコンとしてヒーローたちは生み出されたんじゃないか。そう思うんですよ。 映画見た後、いてもたってもいられなくなってガザ支援の募金に少額ながら突っ込んできた。その気持ちをより強くして、選挙も行きました(もともと行く予定だった) 世界平和が早く訪れるようにと改めて祈ります。そういう力のある映画だと思いました。 映画 2025/07/20(Sun) 20:06:05
夏休みが始まり映画館の開場も朝7時に早まり、文字通り朝一の回でスーパーマンみてきて序盤からありえんくらいべっしょべしょに泣き腫らしてしまい、帰ってきても思い返しては涙が出てきて泣きすぎて頭痛がでて寝込んで休んでいまここです。
https://wwws.warnerbros.co.jp/superman/
誰もが知る「ヒーロー」といえばこの、説明不要のスーパーマン。実写映画でも時代ごとに何度もリメイクされ、その時その時のヒーロー像を描いてきたモチーフでしょう。私も80年代のクリストファー・リーブ版から始まり、近年のマンオブスティールまで、その間に合ったいくつかの作品も含めて数年おきに彼の姿を見てきました。
それぞれに良いところも悪いとこも思うところはあるけど、今作でなにがこんなにびーびー泣いてしまったかって、映画の中で描かれる人々の姿に感銘してました。
序盤、初っ端から苦戦するスーパーマンに一市民の男性が「あんた俺を助けてくれただろう」といって駆け寄って助け起こす姿にまずぶわっと高まり、彼のその後の顛末に悲しくて悔しくて涙し、同じく作中で彼の死を悔やむ人々にまた泣いてしまい、最後の一幕で新聞に彼の写真があることにとどめさされてしばらく立ち上がれなくなってしまう。
そう、彼が、彼のような、ひ弱で素朴で、けれど誰よりも強い人が居るから、私たちはこの世界をあきらめきれない。この世界には善性があるんだって信じたい。彼がいたからあの戦争を止めたいと強く思うし、世界が平和であってほしい。まさに彼があの世界の戦争を止めたんだ。
今作のスーパーマンが人一倍「人間くさい」と評されるのをしばしばみますが、個人的にはスーパーマン自身は別にいつもだいたい同じ悩み方をしていて、それこそ歴代でも最も「神聖視」が強調されたマンオブスティールと今作も大きな差を感じないというのが正直なところで。じゃあなにがそんなに違うように見えるのかといえば、スーパーマンとその周囲の人間の距離感や描き方では、と思うんですよね。
強大な力と孤独な立場と、時に柔らかすぎる優しさがスーパーマンの共通要素と思いますが、今作ではその彼の周囲にヒーローにしろ普通の人間たちにしろ、スーパーマンとは違う形で、でもちゃんとそれぞれの立場で世界のために行動する人たちがいる。それがスーパーマンの孤独さを相対的に薄めているんじゃないかと思います。
利益重視の企業所属ヒーローたちでも実利を超えた正義感で人を助け、お気楽そうに見えた人も聡明に行動し、クラークの両親は「親は子に役目を与えるのではなく、手段を用意するだけ」と言って生まれからくる呪いを解いて息子の背中を押し、ジャーナリストたちは報道の力で悪を刺す。
それはスーパーマンとは違う、スーパーマンにはできない戦い方で世界を良くしようとする人々でもある。それがこの映画の最後にスーパーマンが語る「みな本当は強い人間であるんだ」という言葉の証明になる。
逆にいえば、マンオブスティールはじめとしたDCEUのスーパーマンは友達がいなさすぎるんだよな……周囲のヒーローたちも距離置いてくるしさ……その距離感があの映画の「神聖視」の中身だよねと。それはそれでわかるものではあるんだけども。
それ以外では、今作のヒーロー像としてめちゃくちゃ「人命救助」にフィーチャーしてたのが良かったですね。近年のアメコミヒーローものといえばマーベル映画シリーズですけど、最近は「世界を滅ぼしかねない巨悪を倒す」とかは毎回やってますが、「いま危機にある人たちを助ける」シーンが年々少なくなってきてるような……今作は「でもヒーローのヒーローたる所以とは、窮地にある誰かを助けることではないのかよ!」という気概があって良かったです。
そんなマーベル映画も、最初に登場した2010年初頭はさらにその前時代に席巻していたダークナイトやX-MENのような「シックでダークなヒーロー像」に対して、「状況はシリアスでも、根っこに陽気さ明るさを持って世界を助ける」というヒーロー像で差別化し成功した例でもあったんですが、いままたそのヒーロー像が更新されているタイミングに来ているのだなあと感慨深くなりました。
今作の監督がマーベル映画で一躍注目されたジェームズ・ガンであるというのも、めぐりあわせを感じるところです(ジェームズ・ガンが過去の発言が問題視されて、一晩でディズニーから契約切られたときはびっくりしたな~)
今作のスーパーマンはまさに「今」のヒーロー像で、作中で描かれた侵略戦争は明らかにイスラエルによるパレスチナ侵攻を示しているよなあと。
作中でも侵略国家とアメリカ合衆国は「友好国」とされており、アメリカ企業はこの国に格安で武器を売り出し後援している。「侵略側にも言い分はあるし」と渋る世論に対して、スーパーマンは「いまそこで人々が殺されそうになっているんだぞ!」と一括する。
そう、そうなんだよ、複雑な背景があるからって、でもいまそこで武装した軍隊に、巨大な資本に、無差別に殺されている市民がいる。それを止めることに何の理由がいるのか。虐殺を止めて、「虐殺をしない」としたうえで問題の解決に進みましょうって。その心は止められないでしょうよ。
ひとつ思い出したことがありました。東北大震災が起きた直後に書かれたブログ記事で、「おそらくこの災害を描いた絵がこれからいっぱい生みだされるだろう。そこには既存のヒーローたちが駆けつけて、人々を助ける絵が描かれるだろう。でも、現実に、津波に飲まれたその瞬間にヒーローたちはいないんだ」という主旨が淡々と書かれていたのが印象的で、今も災害報道を見るたびそれを思い出すし、昨年の能登地震を被災した時にも思い返していました。
確かにそうなんだと思う。フィクションのヒーローたちはいなくて、戦争も災害もそうだし、私がむかし事故にあった瞬間も助けにくるヒーローはいなかった。
でもさ、決定的に助けられる人はいなくても、それでも助けたいっておもうんだよ。助けたいと思ってくれた見も知らない人が駆けつけてくれたから、私もいまここに生きていられる。つらい立場の人が居ることを知って、何かできないかと自然と湧き上がるその気持ちをきっと善性と呼ぶんだとおもうし、「そんな善性が、この世界にはあるんだ」と人々の心に宿すアイコンとしてヒーローたちは生み出されたんじゃないか。そう思うんですよ。
映画見た後、いてもたってもいられなくなってガザ支援の募金に少額ながら突っ込んできた。その気持ちをより強くして、選挙も行きました(もともと行く予定だった) 世界平和が早く訪れるようにと改めて祈ります。そういう力のある映画だと思いました。