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南柯そう/仲村のなんとかその日暮らしログ

季刊エス Vol. 90「中村佑介 シゴトバ探訪 とあるアラ子」記事を読んだ

季刊エス Vol. 90「中村佑介 シゴトバ探訪 とあるアラ子」記事を読んだ

わたくし、姉妹紙も含めて十年以上、「季刊エス」を紙媒体で定期購入しているんですが、今回は気になった記事がありました。



イラストレーター・中村佑介さんがインタビュアーとなって、様々なクリエイターに突撃インタビューする連載記事「中村佑介 シゴトバ探訪」。

中村さんはもちろん優れた「絵描き」であると同時に、とにかく言葉での発信にも誠実で積極的な方という印象で、この連載も毎回鋭い意見が飛び交う内容でとても楽しく読んでいます。過去に発行された書籍「みんなのイラスト教室」は、いわゆるご本人の作成手順を記したイラストメイキング本ではなく、絵描きを志す人の技術向上を目指す文字通りの「教本」といった内容で、当時は感銘を受けたし今でも折に触れて読み返しています。

この連載も、単に対談相手の言葉を引き出すインタビュー記事というよりは、中村さん自身が迷っていること悩んでいること、時には社会との軋轢なども踏まえて他のプロクリエイターと意見交換する趣が強い。

今回は「ブスなんて言わないで」を連載中のとあるアラ子さんを相手に、冒頭から「女性がルッキズムで苦しめられているのを理解しつつ、しかし自分たち絵描きも絵の中で美しさを強調し、この苦しみに加担して再生産していないだろうか?」という主旨で、直球の疑問を投げかけています。

正直、木っ端なアマチュア絵描きの自分でさえも、この悩みは常々考えてしまいます。特に自分はオリジナル作品を書きだすにあたって、キャラクターメイクの過程で「この人はこういう役割で、こういう性格だから、こういう外見・名前・出身・生い立ちをしている」という作り方をしており、そこで「……これってつまりは、自分の中の『こういう人とはこういう背景があるものだ』という偏見の発露ではないか?」という悩みにぶつかったことがあります。

今も特段そこに何か結論があるわけではなくずっと悩んでいるし、なんなら二次創作をしているときでも頭に浮かびます。月並みなことではあるけど、そこにある一種の偏見という攻撃性を意識しながら気を付けていくしかない……刃物がないと生活がままならないけど、刃物の扱いは常に気を付けないと自他を傷つけかねないから、と消極的に考えるくらい。

それはそれとして私は昔から洋画が好きなんですが、アメリカ映画はここ20年ほどで価値観の大転換があり、映画の中でも有色人種やセクシャルマイノリティの存在感が大きく変わっていきました。いまでこそ随分定着しましたが、この前時代の過渡期は自分から見ても「あくまで白人中心主義をゆずらないままで行われる『ご配慮』」というような、荒っぽく、傲慢な態度が作品鑑賞を通じてもわかるくらいに蔓延していた時代あったよな~と。実例を見ているだけに、あれは、本当に嫌だなあって思うんです。

その一方で、特に女性運動の文脈にあるフェミニズム映画(とよばれる映画群)も近年はよく見てきましたが、それらは「男性中心社会の解体」という通底したテーマであり、さまざまな社会への洞察に共感と納得する一方で、「それはそれとして、そこにいる男性個人を傷つけたいわけじゃないんだよな」という思いも自然にポップする。

建前として「これは悪しき構造の解体を目指しているわけで、男性という性質を持った誰かを傷つけたいわけではない」とは考えるものの、いうても自分と同じ性質の登場人物の立ち振る舞いや価値観からメタメタにされてるのをみて、男性たちは自分自身と全く切り離して考えられるだろうか。

それこそ、女性に対する偏見や抑圧というものも、同じような形で私を傷つけてなかっただろうか。社会の構造や根付いた価値観なんかどうでもよくて、ただただ私怨を表現を通じてやり返して気分が良くなっているだけの自分がそこにはいないか、と考えてしまう時がある。記事の中でアラ子さんが語るような、冷静になりきれない凶暴性が、自分の中にあるのを自覚します。

中村さんとアラ子さんは「常に記号性を問い直し、時代に合わせて気を付けていくしかない」とは話していますが、それが完ぺきではないこと、そこから外れた人を非難しきれないこと、追いつけない人たちも否定したくないと率直に話し合っていて、そうなんだよなあと頷きながら読んでました。

読んでからしばらくそのことを考えてしまうくらいには、とても意義深い記事でした。おそらくネットには上がらない記事と思いますが、最近の季刊エスは主要ストアの電子版もあるので興味ある方は是非どうぞ。

https://www.s-ss-s.com/s/90
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